ダンロッパーへの道が険しいことに気が付いた、積極的選択としてのダンロップ(´・ω・`)
ジョギングシューズが2足たて続けに、天に召された。
靴底が両方とも剝がれたのだ。接着剤でくっつける方法もあるのだが、まあ、何年もはいているものなので、ここらで新調しようとABCマートに向かう。
ABCマートに向かっていたのだが、途中で東京靴流通センターがあり、そちらに吸い寄せられる。
50も近いおじさんには、ハイスペックなシューズなど必要ないのだ。
必要なのは、膝への負担を軽くするシューズである(´・ω・`)
さてと、ナイキナイキ、アディダスアディダスとどちらかにしようと向かうと、途中で、お、これ履きやすそうでかっこいいなと手に取った靴がダンロップであった。
いや、けっしてダンロップをディスるつもりはない、つもりはないが、ぼくの中で、ダンロップとは、70代のアクティブな男性が、釣りのベストとよくわらないキャップをかぶり、ダンロップをはいて、コンビニのイートインでストロング系を飲んでいるイメージなのだ。
戦慄した・・・・とうとう俺は、ダンロップに追いついたのかと・・・・
そうか、あのおじさんたちは、消極的選択ではなく、積極的選択でダンロップを選び、釣りのベストを着て、帽子をかぶっているのだ。
おそらくは、機能美を追求したひとつの様式であろう。収斂進化みたいだ。
機能美は美しい。無駄をそぎ落とした機能だけの存在はそれだけで美しいのだ。最近、それを感じるのはカプセルホテルである。
さて、ぼくはダンロップを手に取り、逡巡する。ぼくがダンロップに追いついたことについては、自分の成長を認めてもいいと思うが、それでも、渋みまで昇華できるほどの哲学がない。
まず、釣りのベストをもっていない(´・ω・`)なんのキャップかわからないキャップももっていない。
コンビニのイートインでのストロングはやはり、まだハードルが高い。
ただでさえ、近所でよくわからない時間にうろうろしているので、無職疑惑があるのに、これで近所のコンビニでストロング飲んだら、数え役満確定である。
社会的な動物である以上、ぼくも一定の社会からの見られ方は意識する。
で、あるので、ダンロップをそっと棚に戻し、アディダスのジョギングシューズを買う。
近い未来、ぼくは、躊躇いなく、ダンロップを買えるようになる日がくると予感させる。だが、今ではない・・・・今ではないのだ・・・・
おそらくは、ダンロップをはいて釣りのベストを着て、キャップをかぶり、近所のホルモン屋で時間を過ごしているぼくを想像すると、少しだけ安心できる。なんだったら、ダンロッパーのおじさんたちが、おいでおいでとしている風景まで想像できる(´・ω・`)
最近、訪問看護ステーションでのPTの報道で、やるせない思いになったので、格別無意味な文章を書いてみた。
ぼくが自信をもって表現できるのは、自分が体験したことだけなのだ。
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