人生観をアップデートしたかもしれない

 虐殺器官にハーモニー、この2つは文学が読めない頭に入らない鬱の時でもするすると読書が捗った。読んだ後に、著者伊藤計劃氏はもういないのだと知る。伊藤計劃について気になり、伊藤計劃記録という短編とかエッセイとか載った本を読んだ。その中で今でも好きなのが【人という物語】というエッセイで、人はなぜ子を成すのかという疑問から人生について書かれている。サクッと読め、最後の私は語り継がれたいで終わる。初めて読んだ時は気づかなかったが、亡くなる数ヶ月前に雑誌に寄稿されされたものらしい。それを知ると更に、死ぬかもしれないという現実の中で出た答えが語り継がれたいということに必死さと、言葉がより一層重いものに感じる。
初めて読んだ時は、私自身が希死念慮があり人生は苦行でしかなかったので誰も私のことを覚えててほしくなんてないと思っていた為、普通の人はそう思うのかとか語り継ぐほどの人生があるものなんだなとか思っていた。

 祖父の葬式でお坊さんが「人は2度死ぬといいます。一度は肉体が朽ちた時、2度目は人に忘れ去られた時…」と決まり文句のようにすらすらと説教にも聞こえるようなでも宗教観のあることを言っていた。忘れないようにお墓参りや皆さんで思い出を話したりしましょう的なので、地獄も天国も宗教を信仰していない私には確かに忘れたくないなというくらいのものだった。

  葬送のフリーレンを見た。とてもとてもしんみりとじんわりと心に残るアニメだった。天国なんてないと信仰心がないフリーレンに、「そのほうが都合がいいからです。 必死に生きてきた人の行き着く先が 無であっていいはずがありません。」とハイター。都合よくするのは大事だし、確かに死んだら女神様に褒めてほしいなと納得した。そういうもんでいいんだって、拍子抜けした。

 クラフトがフリーレンに「俺が誰かわかるか?」と聞きわからないと言われてわからないと応えるフリーレン。「女神様がいてくれなきゃ困るんだよ、俺の成してきた偉業も正義も知っているやつは皆死に絶えた、だから天国で女神様に褒めてもらうんだ、自分の生きてきた軌跡が誰にも覚えられてないというのはあまりにも酷だ。」
  クラフトは英雄だろうけど誰も覚えてない。それは褒めてほしいわけじゃなくて称えられたいわけでもなくてそれが自分しか覚えてないということが寂しいのだと思う。まして、数千年生きていたとすればそれはふと現実だったかどうかも忘れてしまいそうなものなのかもしれない。その偉業が相棒と成し遂げたものならなおさら、その相棒の話を誰ともできない悲しさもあるだろう。だから、宗教に縋るしかなく女神様に褒めてもらう目標を設定することで永遠のように見える人生を目標に向う道として歩んでいるんだろう。
  続けてハイターをもういないというところを、フリーレンが天国にいるよと答えるところが好きだ。それは、天国があってほしいという希望、ハイターが天国にいるといいなという希望、天国を信じるクラフトに合わせたとかかもしれないし、全部だといいな。それに対しても、クラフトが「ならいずれ会えるな」と話すところもとてもいい。 

   人という物語で人に語り継がれたいと書いた伊藤計劃を、私がここにまた伊藤計劃のことを書くことで語り継いでいる。
  さっきのクラフトがが忘れ去られるのはあまりに酷だと話したことにフリーレンは、それは私達の願望だと答える。願望でしかないあるかもわからないものだと。そして天国へ旅するフリーレンに、クラフトが「天国もか?」と続けた。
   人に語り継がれ物語を紡ぐために人は子をつくるとした伊藤計劃が、私は語り継がれたいと願望で締めた。人間がそうするものだとしても、自分の意思でそうされたいと願望を書いた。人は忘れられた時に2度死ぬという。一度身体が朽ちるとも、二度は死にたくはないそう思うのかもしれない。

   ヒンメルが「誰かにすこしでも自分のことを覚えてもらいたいのかもしれない」となぜ人助けをするのかと聞かれたフリーレンに自分のためかもと言った。生きているということは誰かに知ってもらって覚えていてもらうことだとも。これはこのnoteを書いた数日後にまたフリーレンを見返してなんだ、ヒンメルが答えを教えてくれてるじゃんとなって追記してる。私自身が自分以外の人間がどうでもよく、同級生の名前ですら殆ど覚えていないくらいなのでヒンメルが言ったことが新鮮だった。覚えててほしいと思えるような自己愛が欲しいものだなと思いつつ、無意識でしたことが人に感謝をされたフリーレンは驚いた表情をしてヒンメルの先程言葉を思い出す。 ヒンメルは人に覚えててもらいたいからかも生きるということは、と大きな話をしたけれど実際は無意識に人助けをする勇者で自分のためといいながら見返りなど求めない。実にヒンメルらしくかっこいい。言葉は直ぐに自分になじまずとも経験するにつれ意味がわかることが増えるのが人生の面白いところなのかもしれない。

  私は希死念慮が中学の時からあり、高校の時に人は勝手に生まれ落とされるから死は自分で決めることで自分の人生を自分のものとして終えることができると考えた。人生は死ぬまでの暇つぶしで苦行だった。今でも希死念慮がどこかにいて死ぬしかないんじゃないかって思っては苦しい。うつ病なのか思い込みか性格かもうわからない。そんな人間が生きることについてほんのすこし前向きに捉えられたと言うことで書いた。

  私は早く消えて楽になりたいが、天国に行きたいし褒められたい。人に覚えててもらえるような人でありたいと思った。言語化が難しいのだけれど、死と人生についてエピソードが少し関連して思えたのでそれを書いてみた。ヒンメルならそうしたという言葉を抱いて生きていきたいし、私は人をわかりたい。   天国で祖父に会いたいな。