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曾祖母が亡くなった話

去る2月8日、曾祖母が旅立って逝きました。89歳でした。あまりにも突然で、さまざまな感情が追いつかず、受け止められませんでした。僕はただ、次々と起こる出来事を経て、事実を記憶することしかできませんでした。

骨上げを終え、ようやく飲み込むことができ、気持ちの整理と共にここに文を綴っております。6000文字を超えてしまったので、Twitterではなくしっかりとした形で書き残しておこうと思い、noteを一つアップロードすることにしました。


曾祖母が異変を感じたのは7日の朝でした。その場に私が居合わせたわけではありませんが、胸が苦しい、首が痛い、などと申していたようです。私は昼に起きましたのでこのことを母から聞きました。
その後、主治医に往診していただき、狭心症ということで頓用のニトログリセリンを処方いただきました。次に発作が出た際は救急車を呼んでくださいという指示でした。私は曾祖母の症状と持病から狭心症という見当がある程度ついておりましたが、唯一、股関節の外側の痛みが何なのか分かりませんでした。

夕食はカブと鶏肉の煮物に、鮭の西京焼きと大根の味噌汁だったと思います。二世帯住宅ですので曾祖母の面倒は私の祖父母が見ておりました。用意した夕食を食卓へと運び、我が家でも夕食をいただきはじめたその時でした。

鋭い声とともに玄関を明らかにおかしい様子で叩く祖母を扉越しに感じました。曾祖母が一口食べた途端に意識を失い、突如倒れ込んだようで、母親が真っ先に祖父母宅へと飛び出していきました。私はアルバイトの予定がありましたのでとりあえず食事を進めたのですが、食卓が慌ただしくなり、その日の味はよく覚えていません。
ものの数分で母親が戻ってきましたが、母親が行った時にはすでに呼吸数がかなり少なくなっており、目を閉じていたようです。いよいよか、と思い、覚悟をして、私も弟とともにサンダルで家を飛び出しました。

曾祖母は息を吹き返していました。会話ができ、口もしっかりと動いており、普通に寝ているかのような様子でした。枕元には防犯ブザーが置いてありました。聞いた話ですが、祖母が懸命に揺さぶり続けたところなんと意識が戻ってきたようです。
曾祖母ははっきりとした口調で、むくんで血の気のない顔をこちらに向け、枕元でひざまずく私に目線をしっかり合わせてこう告げました。


「おべんきょう、がんばるんだよ。」


曾祖母と交わした最期の言葉でした。

その後、到着した救急隊員に運ばれていきました。痛いと言っていた左膝は担架でも伸びていませんでした。曾祖母にとっては、これが家で過ごす最期の時間となってしまうのでした。




曾祖母は昭和7年、1932年の生まれですので当時は戦争の真っただ中でありました。戦時中の人々の暮らしというものは社会科などで習うものと思いますが、「人の育ち方」という面でも全く現代と異なる部分があります。

少し話が逸れますが、私の曾祖父は5年前に95歳で亡くなりました。今年で100歳となる予定でした。
曾祖父が生まれた家は、曾祖父は分かりません。というのも、当時は生まれた子供を養子に出したり、近隣の子供のいない家にあげたり、裕福な家に送ったりすることが当たり前のように行われていたためです。
村社会などの共同体を基軸に、地域全体で子供を育てる、という考えが当然でしたので、どこで生まれたのかを知らないままの人が多くいたようです。子供の人権が声高に叫ばれる現代では考えられないような話ですが、戦前の日本はこうした村社会が根底にあったようです。

曾祖父はそんなわけで、自分の苗字を知らないまま、「藤村(仮です。実際の苗字とは異なります)」という家に引き取られることになりました。それなりに裕福な家庭でしたので今でいう高校の教育課程までは進むことができたのですが、人の家に厄介になっているという気持ちがあったようで、自ら志願兵となり、いわゆる「お国のために」人生を全うすることを決めたそうです。

曾祖父はインドネシアのスンバ島で米兵と戦っており、海に投げ出されました。後ろに火の海が迫っており、潜水してとにかく遠くへ、火のないところへと逃げ続けました。もう息が持たないと顔をあげたところ、まさに数センチ後ろに火が迫っていたようです。本当に一歩誤れば命を落としていたことになります。この結末が曾祖父にとってどうだったのか私には推し量ることができませんが、結局命を落とすことなく戦い続け、フィリピンのレイテ島で終戦を迎えたとのことです。言葉を選ばずに言うなれば、死ぬに死ねなかったということになるでしょうか。

曾祖父は帰国後も「藤村」の姓で暮らすこととなり、職人として働き一生懸命に戦後を生き抜きました。曾祖母と出会ったあともそれは大きく変わらなかったようです。曾祖母も養子に出されているので、もとの姓から「藤村」の姓にここで変わったようです。
こうした「藤村」の家に、祖母が別の家から差し出されてきて、形式上の子供を得たのでした。曾祖父母は、戦前とは全く別の姿に作り替えられていく日本のすがたを目の当たりにしながら、祖母を育てていきました。
祖母のことも、話せば長くなるのですが、長男長女が比較的可愛がられていた社会において、5人きょうだいの末っ子の祖母は「モノ」同然だったようです。家系がとても複雑なのでしっかり説明できないのですが、要するに、本来は全く血の繋がっていない人が「藤村」の家に集まって家族ができていた、ということです。


ややとりとめのない話となりましたが、「人の育ち方」が今とはまるっきり異なることが、なんとなく分かっていただけたでしょうか。
共同体がベースだった戦前の社会から、戦後の核家族型の社会に移行する、その過渡期を生き抜いた曾祖父母でした。
二人とも、旅立つ間際にお墓や苗字への執着を強く見せていたのですが、こうした戦前の社会を生きていたからこそ、苗字を持っていることが一つの「誇り」であったように感じていたのではないかと思います。
決まった姓を持ち家系を作らなければ、姓の刻まれた墓石もないわけですし、曾祖母も、苗字のある家に嫁いだことが一つのプライドだったのではないかと思うのです。
私の家の近くにある墓地にお墓を作ればいつも拝みに行けるよ、という提案も頑なに拒み、わざわざ遠くの「藤村」の墓に入れてくれというこだわりがあったことも、納得できる気がします。最期にそうした願いを叶えてあげることが一番よい弔いになると思い、四十九日ではしっかり「藤村」の墓へと納骨に行く予定です。



救急車で運ばれた曾祖母はその後、近隣の大病院に検査入院となりました。こんなご時世ですので大病院は病床が空いておらず、検査のための短期入院という形でしばらく留まることになったようです。救急車で運ばれた以上、そのまま家に返すことはできませんので、検査の結果を待って、空いている病床へと転院する予定、でした。

そんな一報をアルバイト先で受け取った私は、とにかく気持ちを出さないように仕事するしかありませんでした。中3への授業はいつもより集中できませんでした。

私は23時すぎの帰宅だったと思いますが、両親とも起きていました。搬送と検査入院の顛末、暫定的な診断を母から聞きました。急性の心筋梗塞の形跡があったということでした。朝の胸痛がそれだと思いますので、ASTかLDが高かったのでしょう。不安定狭心症などいろいろな病状を考えましたが、明日以降の検査を経てちゃんとした診断が出ますので、今はそこまで考えないことにしました。

その夜は身体は疲れていたはずですが、なかなか眠れなかったのと、不安で仕方がなかったので気分を紛らわすためにしばらくTwitterに張り付いていました。

翌朝もやや遅めに起きました。曾祖母の検査が10〜11時だと聞いていましたので、なんとなくその時間には起きようとしたのだと思います。
朝までは特に変わらない生活でした。


12時20分頃だったと思います。病院から緊急の連絡を受けた祖母が私の家に駆け込んできました。すぐ、危篤、という言葉が聞こえました。母はパンを投げ出し、父は一口だけ食べたカップうどんを置いたまま、病院へ行く準備を慌ただしく進めていきます。私も母のマスクや上着を準備しました。家を空けるわけにはいきませんので、私と祖父が家で待機しました。そのあとの食事は、摂っていたはずですがもう覚えていません。落ち着かなく、歩き回ったり机を片付けてみたりして、ただ曾祖母の無事を祈るばかりでした。電話などが来るかもしれないと思い、スマホの通知音が出るように設定しておきました。


13時22分、父親から一通のLINEが届きました。

曾祖母は亡くなりました。

死因は大動脈解離ということでした。以前より高血圧を患っていたので薬物治療が行われていたのですが、恐らく血管が耐えられなかったのでしょう。後で知ったのですが、心臓付近の大動脈弓から腹大動脈、大腿動脈までの、身体の中心を走る太い動脈が全て剥離していたようです。私はこの時に、股関節の痛みの理由が分かり、すでにそこの血管が悲鳴をあげていたのだと思いました。ここまで血管がやられてしまっていたことを思うと、もはや来るべくして最期を迎えたのかなと感じました。
これも後から聞いた話ですが、曾祖母は朝は普通に起きて朝食を摂り、看護師とも何ら変わりなく会話をし、検査を受ける前には同意書に自分でサインもしていたようです。自分が入院している状況がちゃんと分かっていたということですし、意識のなくなる前兆など何ら感じさせないような、逞しい曾祖母だと思いました。病室を移りこれから検査を行おうと検査台に入って間もなく、スーッと息を引き取ったようでした。新型コロナウイルスが陽性だと当然面会はできず、納棺やお別れ、火葬後の骨上げまでもができないことになってしまうのですが、これが陰性だったのが、曾祖母の最後の抵抗だったのかもしれません。最後の最期まで逞しい曾祖母だと感じました。

病院での手続きと葬儀社への連絡をするためにまだしばらく病院に残るということなので、死を祖父に伝え、カップうどんと食べかけのパンは処分しました。無心でした。


14時50分頃だったと思います。一旦曾祖母が帰ってくることになりました。曾祖母は家が大好きで、というよりは、先ほど書いたような「家への執着」も関係あるのかもしれませんが、最期は家がいいと申しておりました。
帰ってきた曾祖母は、本当に、普段と変わらない姿のように感じました。家に帰って来られて安心したのか、少し笑っているように見えました。線香を上げました。

葬儀社の方と、葬儀のプランニングを進めました。特に何かを提案できるわけでもないのですが、勉強だと思って私も同席しました。内容はここで話しても仕方ないので割愛しますが、親戚は呼ばずに家族だけで、質素にこじんまりとした葬儀を行うことにしました。
曾祖父はデイサービスに通っていましたので、誕生日に撮った写真がとてもにこやかで優しく、遺影となって飾られています。曾祖母もデイサービスに行っていたはずなのですが、写真を全く残しておらず、遺影はありません。というより、曾祖母はデイサービスが嫌いでしたので、通っていた証拠は跡形もなく処分されていたのでした。ここ2年ほどは通園を拒否していました。恐らく写真も捨ててしまったのでしょう。いろいろ拘りのある曾祖母のことでしたから、仕方がないと思います。

翌日には納棺を行いました。納棺の儀は私は初めてでした。私と祖父と、父も休んでいたので男手は十分に用意できました。
曾祖母は綺麗な顔でした。足が寒いとよく申していたので、靴下を一緒に納棺致しました。入院の間に使うはずだった物一式も一緒に納めました。棺は、曾祖母がいつも庭を眺めていた窓から出棺してやりました。

ここから12日の葬儀まで日にちが空くのですが、その間の記憶ははっきりしていません。アルバイトと歯医者に行ったことは確かで、夜はオリンピックを観ながらアルバイトの教材の準備をしていたような気がします。喪服がないので喪章と黒のネクタイを買いに紳士服屋に行ったのは覚えています。ツイートする気力はもはや残っていませんでした。ToDoリストは8日以降、更新する気にはなりませんでした。何もしない時間を長く過ごすことにひどく情けなさを感じ、何度も机に向かうのですが、ペンを握っても、いつも以上に集中が持たず、勉強が進むことはありませんでした。


11日の夕方だったと思います。曾祖母の部屋で遺品整理をしていた祖母と母が目を真っ赤に腫らしておりました。茶器がしまってある引き戸には、ビスケットや煎餅がたくさん入っていました。それは明らかに、曾祖母が倒れてしまった7日の夜、夕食の後に食べようと用意していたお菓子でした。お菓子に限らず、曾祖母は食べることが大好きで、一日三食しっかりと食べていた上に、間食もよくとっていました。お米は祖父母よりもたくさん食べていましたようです。食事前に煎餅を食べていることもあり、祖母が怒っていた光景を思い出しました。


発作が出る前日の6日。この日、曾祖母は2週間ぶりくらいに風呂に入ったというのを聞きました。曾祖母の部屋から浴室までは手摺が取り付けてあり、導線が確保されているのですが、足腰がかなり悪くなっていたこともあり、トイレ以外では立ち歩くことはほとんどなく、窓際の部屋で座っているばかりでした。風邪をひかないか祖母は心配していたようですが、そんなことはつゆ知らず、丁寧に髪を洗い身体を綺麗にしたようでした。この翌日に倒れ、あっという間に旅立っていったことを思うと、何か「準備」をしていたかのように感じてしまいます。曾祖母が何を分かっていたのか知る由もありませんが、とても綺麗な状態で最期を迎えることができ、家族としては大変よかったと感じます。


彼岸になると牡丹餅を作る風習が我が家にはあります。曾祖母は決まってあんこの牡丹餅を作る係でした。いつも綺麗に作ってくれていました。昨年の秋に食べたあんこの牡丹餅が最後になるとは、考えにも及びませんでした。春になると草餅を作ることもあり、まだ体が動くころは曾祖母自ら外に出向き、草を採ってきたこともありました。
お正月には私たちがヒヤヒヤとする中、お餅の入った雑煮を啜っていました。もちろん、さすがに切り餅を1個そのまま入れていたわけではありませんが、お餅も大好きでよく食べていました。


私は今年で22になりますが、お年玉はこれまで毎年もらっていました。「気持ちばかりですけどね」というのがお決まりの句でしたが、私はいつも気持ちだけでも嬉しいと、ありがたくいただいておりました。今年の正月ももらったばかりでした。今年はポチ袋を買ったことを忘れてしまっていて、丑のポチ袋に入っていたのを思い出しました。1月の終わりに自分の部屋を整理して、ポチ袋を全部捨ててしまったのが悔やまれます。


2月3日は曾祖母も恵方巻を食べておりました。マグロときゅうりを巻いたそれなりに大きな巻き物だったようですが、元気に頬張っていたようです。亡くなる5日前のことでした。


12日が葬儀でした。アルバイトは休みました。曾祖父のときと同じ斎場が使えましたので、車で一時間ほどかけ斎場に出向きました。天気はよく、2日前に降った雪が思ったよりも残らず、道中は安全でした。
曾祖母は何度見ても綺麗な顔でした。大きな規模にはせず、炉前読経という形での葬儀を行いました。棺に別れ花を手向けました。よく着ていたセーターを胸元に置き、大事に飾っていた書画も一緒に置いてあげました。引き戸のお菓子も食べたかったはずですので、肩の辺りに置いてあげました。最後に、曾祖母の仕事道具と、母が写経した般若心経を納めました。私は、ありがとう、と声をかけるのがもう限界でした。

遺影はありませんので、棺の中の曾祖母が本当に最期の姿でした。もう写真で懐かしむこともできません。最後に目が合ったときの曾祖母の顔を、棺の中の姿に重ねてみました。
炉の前でもう一度手を合わせ、何度もありがとうと呟きました。
どうか向こうでも私たちを見守っていてください。


あまりにも突然で、そして一気に事が過ぎていき、ついさっきまで曾祖母は生きていたように感じます。怒涛の如く過ぎ去った1週間でした。曾祖母の遺言を深く胸に刻み、医療者として、私は一層勉強を頑張っていきます。骨上げをしながら、その思いはより強固なものとなりました。
共用試験まではあと1年、薬剤師国家試験まではあと3年あります。国家試験が終わっても生涯研鑽を欠かさず、曾祖母にしっかりと成長した姿を見てもらいたいものです。


最後まで読んでくだいまして、ありがとうございました。


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