自作の推し短歌ください・④

好きな人はいなくて殴られてもなくてでも痣ができてはなおる / 小祝愛

疎外の極北のような歌だと思った。

「好きな人はいない」という好意的な人間関係の外にあり、「殴られる」という行為を通じて立ち上がる憎悪的な人間関係の外にもある中で、一番身近に思われる自分の身体さえも、外界の刺激に確かに反応するのにもかかわらず勝手に治癒してしまう。どこにも自分の意思の関与を感じられておらず、かつその痛みの感覚さえ外部にあるような感覚がある。

文法的に負荷の高い歌なので少し整理する。

主語が置かれていないことに関してはいったん、作中主体を主語として読む※1。

歌の中では〈好きな人はいなくて〉と〈殴られてもなくて〉が並列のように置かれているが、この2つは本来別の位相にあるものだろう。
・「好きな人がいる」→感覚的に精神的へ作用する能動的な状態
・「殴られる」→物理的に身体へ作用する受動的な行為
として位置付けられるものが、接続助詞〈て〉と否定の「ない」を通じて〈殴られても〉の「も」に負荷を与えながら並列される。
しかしこの並列を読んだときに、共通するイメージとしては「人間関係のなかで作用すること」で、関わり方を出発点に相反するベクトルへ向かう。いずれにせよ「ない」によって否定されるために、どちらにも疎外される結果となる。

この状況を受けて逆接の〈でも〉が導入されるが、この「でも」は強度が弱いために、〈痣ができては〉の「ては」の因果関係の帰結に負けてしまうように感じられた。つまり、疎外の抵抗として自身の身体が持ち出されているにもかかわらず、「痣ができては治ってしまう」当たり前のことが、自分の意思からも手放された事象であるかのような含みが感じられた。

以上まで読むと、最初に設定した「主語=作中主体」の感覚一般性・普遍真理のほうにも転がっていきそうな気配もはらんでいる。

一応韻律は、6/4・4/5/7/5としてとらえたが、実際のところは

好きな人は[]いなくて[]殴られても[]なくて[]でも[]痣ができてはなおる

のように読んでいる([]は息継ぎの間です)。
この一呼吸一呼吸な感じも、少しずつ状況を飲み込んでいくような感覚がある。

※1短歌的なお約束に則って。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?