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連作メモ(詩客2019.1掲載作品)

はじめに

詩客の2019年1月掲載の二作品がかりんのお二人だったのですが、連作の構造を見比べると面白かったので、そのあたりから書いてみました。

遠藤由季「いいよね、シリウス」

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一読して、連作の構造を上記の図のようにとらえた。
 水を起点にしながら、過去の回想をはさみ、そして現在に戻って、最後は冬の星空でしめくくられる。連作の中で曲がり角(転換点)となる歌が、その前後を橋渡しするなめらかさが巧みである。
 七首目〈ああすれば〉で過去を引き寄せながら、同時に〈さくらのもみじ赤いね〉という発話が、前の一首をうけて散歩中のひとことであるように見えるため、連続性を帯びたまま転換に成功している(一方、突然あらわれた発話の文体に、なんらかの意味性の発露を感受するのだがここではいったんおいておく)。
 この転換は、十首目〈産んだか〉から十一首目〈懐かしい〉、十三首目〈詠いし〉からの〈袋溜まりてゆきぬ〉をうけた十四首目〈大小を入れて〉〈渡らむ〉あたりで、何度も見ることができる。その結果、カット数(描き出される景)が多いながらも、つながりを見せる映像のように流れていく。また転換点としては作用しないが、前の歌で出てきたイメージ性をひきついでいくことで、さらに連作のまとまりを強化している。
 連作の内容に触れると、八・九首目から女性性の生きづらさの意味合いが目立って見えるが、社会的な批判というよりも、個人の疲労を押し出すようなものとして感じられる。それは二十首目で〈いいよねシリウス〉と自然(星)に投げかけていることからも、なんらかの解決を求めているというよりは、制度的な枠組みをはなれ、いっときの休息を得たいという気持ちを優先させるように見えた(十八首目で夜空に「区画整備」を見出す主体であるため、社会やシステムへの心寄せはつよいとは思われるが)。

辻聡之「権力と花山椒」

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対してこちらの連作は上記のような構造として捉えた。
 「水道民営化」のニュース(四・十五・十六首目、一首目は前触れとしての水道の歌)から、権力や権威、それにともなう暴力的な作用の発露に触れようとする内容である。主体の生活の時間軸とはやや別の位相で、民営化法案の審議→可決という時間軸があるため、連作の中ではぽこっと浮上してそのことが思われており、そこから権力的なものへの接続がある。
 連作のなかで、「権力」は主体にとってかつて〈憧れてい〉た(十首目)ものでもあったが、それは社会の中で暴力的に働きうる(五・七首目)ことを知っている現在、「目を逸らしていたさ」をまとったものである。ゆえに「水道民営化」のニュースは〈スクロール〉されて〈猫〉の記事(あるいは画像かもしれない)に行ってしまうし(四首目)、権威性を得ることとなる〈課長になるまでの時間〉は〈メンフクロウの沈黙〉として埋没する。
 ただ(悪法とされる)民営化法案は国会を通過し(十六首目)、権力への抗えなさが示される。同時にその暴力性は自身へ翻って問われ(十七首目)、主体に揺らぎがもたらされたあたりで連作は終わる。判然とした思想を断言できない、現代人のひとりとしてのありようを「半透明人間」という語に引き受けさせている。だからこそ〈花山椒の色どり〉が、自身との対比もしくは自身の象徴性をおびる(と思うが、個人的には実際の街路の花山椒をとらえきれていないせいで、ちょっとこのあたり読みきれていない)。いわゆる社会詠ではあるが、ゴールとしては、個の揺らぎに比重が置かれていると感じたし、白黒どちらかの立場を要求されてはっきりとは答えられない苦しさが思われる。

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