見出し画像

言葉をどこに留めるか

休日に仕事を片付けようかなと思ってPCを開くと、つい文章を書きたくなってしまう。

いわばテスト勉強前に部屋を片付けたくなる現象と同じで、頭脳労働の前に思考の整理をしたくなるらしい。脳の体力にも時間にも余裕がある時に言葉遊びをするのは良い娯楽ですね。

言葉と媒体について

常々思うのは、僕たちが言葉を使って表現をする時にどんな媒体/メディアを使うのかによって、その表現は形を変える。

会話なのか、手書きなのか、デジタルなのか
手書きの中でも、鉛筆なのか、水性ペンなのか
デジタルの中でも、物理キーボードのタイピングなのか、スマホのフリック入力なのか
手書きの入力に対してデジタルの入力は速い。デジタル入力は手書き文字特有の字の癖、筆圧、迷い、みたいなものが抜け落ちるかわりに、素早く言葉をまとめることができる。普通のタイピング能力でも手書きの三倍くらいの速度にはなるかな。

でもその速い入力の中で、逆に表に現れずに消えてしまう言葉があるかもしれない、熟慮せずかな余計なことを書いてしまうかもしれない。

奥さんと喧嘩をした時は、しばらくは口論をするのだけどそこで解決ができない場合、口をきくのをやめてLINEに移行するのだけど、手軽な分どれだけ気をつけても余計なことを言ってしまう。
紙の手紙を書いて謝る場合は、書いて渡すまでに時間が時間がかかりすぎて、本来伝えたいことを伝え切る前にもうやむやになってしまう。結婚して数年経つけれど、喧嘩の解決に当たって、どんなツールを使ったら良いのか未だに分からない。

それからどこに向けて伝えるのか。
手紙なのか、ブログなのか、SNSなのか、秘密の日記帳なのか。
たとえば僕はnoteについてはリアルの知り合いとは積極的に繋がろうとしていない。リアル知り合いばかりのFacebookにはほとんど何も書けない病を患っている。

それからどんな言語を使うか。
日本語なのか、英語なのか、中国語なのか。
中国語はミニマムな漢字ばかりでひらがなのようなふにゃふにゃとした余白みたいな要素がないように思う(僕がまだ勉強始めたばかりだからかも)。英語も割とそうかもしれない。
それを確認するには外国語の文章を読んでみたら良いのだけど、読むとしても原文をそのまま理解するのではなく一度日本語に翻訳して読むしかなく、日本語フィルターが入ってしまうので、結局のところの余白感が各々の言語によってどう変わるかみたいなところを感受しにくい。

ちょっと話は変わって、昨日は初めて六本木の文喫に行った。もともと有名な本屋があったところ(青山書店だっけ?)にできた入場料を払えば中の本を読み放題の店舗だ。3万冊くらいの蔵書で、話題の本や文化的な本が多い。似たようなものとしては蔦屋書店と比べてしまうけれど、装丁の立派な本を気軽に読みやすいのと、お金を払うことで蔦屋書店よりも一層堂々と本を読める心理的な違いがあると思う。

ちょうど今、文喫では手紙を書く企画展をやっている。文喫の入場時に便箋と封筒をもらう。そして、

・一年後に誰かに届く手紙を書く
or
・知らない誰か宛の手紙を一通書いて、知らない誰かが書いた手紙1通もらう

という企画だ。

一緒に行った奥さんが一年後の僕宛に手紙を書いてくれていたので、自分もそれに倣って一年後の奥さんに手紙を書いた。
と言っても僕はペンがなかったので、PCでNotionにテキストを打って共有リンクをbitlyで短いURLして、奥さんが使い終わったあとにペンでそのURLを短いメッセージと一緒に手紙に書いた。
デジタルの手紙ならではのことをしたくて、Notionのページの中にはその日の写真を何枚か貼り付けた。
さらに紙の手紙ならではのこともしたくて、便箋の中にはお小遣いを入れた。

そんなこんなで言葉とメディア(=媒体)について思うことを自由にかいたけれど、何にせよそれらは混ざり合っているもので、思考を一様に外部に留めておくのは難しいと思うのであった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?