人生は当事者でなくていい。ただ観測するだけで十分。
正月から地震、航空機事故と、「明るさ」とは正反対のニュースが続いています。
ただ、それらは物理的にも精神的にもかなり遠い場所で起こった出来事なので、自分事とはいいがたいというのが正直な感想です。
寄付や支援をしたり、片付けの手伝いをしたりしている方の様子を見て感心します。ですが個人的には、そういうことは個人ではなく、社会や国家の適切な部門が取り扱う領分だろうという気持ちが強いです。
そのため「自分にできることをしよう」という気持ちが全くないというか、そもそも「できること」なんてないだろうという気持ちです。
一応言っておくと、誰も何も肯定も否定もするつもりはありません。
みんなやりたいようにやれば、と思っています。
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なんといいますか、人間って「自己」を拡大しすぎる傾向があるなと感じています。言い換えると共感しすぎ、ということでしょうか。
災害や事故について、自分事のように辛くなったり悲しんだりする。今回は日本国内で起こったことなので、それなりに親近感はありますが、これがアジアや北米だったらどうでしょうか? 同じように感じるでしょうか? 世界では未だに戦争が続いていますが……。
スポーツで喜んだり、映画で泣いたりすることも同じ構造ですよね。
あなた自身にはなんの物理的変化も生じていません。
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結局、人間ひとりの存在なんて、この広大な世界、膨大な数の人類の中で見ればちっぽけでしかないわけです。
そんなちっぽけな存在が、やれ「自分にできること」だの「ひとりひとりが声をあげよう」だの考えても、適切に組織された社会組織や仕組みの邪魔になるだけだと思います。
そもそも人間にとって「自己」とは、どこからどこまでなんでしょうかね。生きていると自分の力で変えられることもありますが、ほとんどが自分の力では変えられないことばかりですよね。
いわゆる「自己」の代表格である肉体は、生まれた時点で与えられたものを使うしかなく、自由にデザインできるわけではない。こんな変えられないものを「自己」と定義することが正しいのかどうか。
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こうやって突き詰めて考えていくと、自分の力で変えられるものは「思考」だけではないでしょうか。つまり、人間にとって自己と呼べるものは思考だけである、と。
つまり人間にとって、あらゆる事象は自己から外れ「環境」になります。環境は、ただ傍観することができないものです。
傍観しかできないもの、自分の力で変えることができないもの、自己と呼べないこれらのもの(=人生)に、当事者意識をもつことは不可能でしょう。
(おわり)
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