暴露

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毎週水曜日の夕方六時からの二時間、それが僕と先生の時間だ。
先生は『先生』といっても学校の先生ではなく、家庭教師の先生だ。
都内の有名な大学の学生である彼は、教え方が丁寧で評判も良いと母さんがママ友から教えてもらったらしく、今年高校受験を控えている僕のために春から雇われた。
最初は自分の部屋に他人を招くことに抵抗もあったが、先生の柔らかい雰囲気のおかげか、夏休みが間近に迫った今となってはすっかり慣れてしまった。
いや、思い返すと、先生と僕は初めて会った時から妙に相性が良かった。自己紹介の後の雑談も盛り上がっていたと思う。僕のただの自惚れじゃなければ、先生もそう感じているはずだ。

先生は僕の『憧れ』だ。
先生は頭が良い。有名大学に通うだけあって、勉強の教え方もわかりやすいし、話も上手だ。
先生はカッコいい。ドラマに出ている男性俳優に引けを取らないくらいの男前だ。
先生は性格が良い。僕がクラスの嫌なやつの悪口を言うと、軽く窘めた上で、「中学生も色々あるよな」と慰めてくれた。
先生はセンスが良い。持っている小物がさりげなくオシャレでカッコいいし、自分に似合うものしか身に着けていない。

先生は、僕の『憧れ』なんだ。

僕は先生みたいに、いや、可能ならば先生そのものになりたかった。
でも、それは無理だとわかっている。
僕は先生みたいに、頭もよくないし、カッコよくもないし、性格も良くないし、センスもない。

だから、せめて、せめて先生の『一番』になりたかった。
『憧れ』の先生の『一番』なら、自分を納得させられる。そう思っていた。

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「夏休みの学習計画はちゃんと立てたのかな?」
課題がひと段落したところで、先生が僕にそう聞いてきた。
今日は夏休み前、最後の水曜日。夏休みは夏期講習があるのと、家族で父方の実家に行く予定なので、その間先生は家に来なくなる。もちろん先生の授業もお休みだ。
普段は先生と一週間の学習計画を立て、水曜日に進捗を確認するという形式だが、ひと月以上それがないので、自力で勉強しないといけないのだ。

「はい。計画といっても、どの日にどの教科を勉強するか決めたぐらいですけどね。」
夏休みは長い。最初から予定をギチギチに詰めてしまうと息切れもするし、何より、休みの間にやりたいことがある。
そのため、だいぶ緩い計画とも言えないような内容の予定になってしまったが、先生は否定しなかった。
「うん、良いんじゃないかな。一学期の間に君の成績も上がってきてるし、大事なのは勉強を習慣化させることと、最後までモチベーションを保つことだからね。」
だからと言って羽目を外したりしないように。先生は、眼鏡を光らせながらそう言うと、うっすら笑みを浮かべた。

僕は、先生のこの表情が大好きだ。
カッコいい大人なのに、どこかあどけなさがある。悪戯っ子のような顔だ。

「もちろん、わかってますよ」
僕はそう返しながら、卓上のカレンダーを見た。次に先生に会える日のは再来月だ。
夏休みが始まってもいないのに、僕の気持ちは休み明けに向かっていた。

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夏休みが始まった。
やるべきことはあっても、まだ休みも序盤だ。焦るようなことは何もない。

僕は、今のうちにやりたいことの下準備を始めることにした。
幸い、必要な道具は友達の協力もあって揃えることができた。あとはそれらを使えるように慣れていくだけだ。

僕の両親は共働きだ。日中は僕以外、だれも家にいない。
それをよいことに、僕は家の中であれこれと動き回っていた。
やりたいことを叶える、ただそのために。

僕がやりたいこと、それを一言で表すと『イメチェン』だ。
今の自分とは違う自分になりたい。
そうして、先生の『一番』になりたい。なれる自分に『変身』するのだ。

とはいえ、具体的に先生の『一番』がどういうものかはよくわかっていない。
今やっていることも完全に手探り状態だ。それでも、目標に向かって何か新しいことをするのは楽しい。

それに、次に先生に会うとき、どんな表情を見せてくれるのか。
そう考えるとなおさらワクワクした。

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数日経ち、『イメチェン』をするのにも慣れてきたころ、僕は次のステップに進もうと思った。
今までは、家族すらいない家の中でひとり『イメチェン』していたが、外に出て、他人の目にも慣れようと思ったのだ。

昼間から外に出るのはさすがに不安だ。
万が一、知り合いに見つかりでもしたら、からかわれるのは目に見えている。
だから外に出るのは夕方。陽が沈むかどうかくらいの時間が良いだろう。

格好も、用意した姿そのままだと、さすがにまだハードルが高い。
上下ジャージを着て隠してしまうことにした。
多少暑いが、これならたとえ知り合いに見られてしまったとしても、言い訳ができることだろう。

とりあえず少し遠くのコンビニまで行ってみよう。
僕は暗くなり始めた家から出た。

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外に出てしばらくは人目が気になってしょうがなかったが、案外慣れるものだった。
いや、嘘だ。人目につくことはまだ慣れていない。たまにすれ違う人からの視線を受けると、とっさに下を向いてしまう。
しかし、視線を受けるというそれも稀だ。そもそも、周囲の他人を気にする人はあまりいない。
それに気が付けば、過剰に緊張することもなくなり、周囲に溶け込むように自然体で歩くことができるようになった。

そうして、自分の姿も半ば忘れて歩いていると、いつの間にか目的地に設定していたコンビニの前まで来ていた。
途中まで緊張していたせいか、それとも夏にジャージを着て厚着をしているせいか、体が汗ばんでいる。
コンビニの中に入り、涼もうかとも思ったが、そろそろ帰らないと親が帰宅してしまう。
今日は遅くなると連絡があったが、さすがに深夜になるわけではないだろう。

コンビニの出入口で入るか悩んでいると、中から出てきた人とぶつかりかけてしまった。
慌てて横にずれると、相手と目が合う。
「え……?」
戸惑いの声をあげたのはどちらだったか。
ぶつかりかけた相手は先生だった。
 
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毎週水曜日の家庭教師のアルバイトが楽しみだった。
受け持っている子は、今年受験を控えている中学生の男の子。俺はこの子のことを気に入っていた。
見た目では素直で大人しそうな彼だが、実際話してみると意外と元気が良くて、そのギャップが面白い。
裏表のない話口は楽しく、楽観的で向こう見ずな部分もあるという彼のしでかしたエピソードは聞いていて飽きない。特に、中学校の入学式でやらかした話なんかは傑作だった。
生徒として受け持つことになってから早数週間、彼も自分に打ち解けてくれている様子で、それがなおさら嬉しい。

そんな仕事先だからか、今日からはしばらく授業も休みと分かっていたはずなのに、つい彼の家の方面の電車に乗ってしまっていた。
どれだけ楽しみにしているのかと、自分で自分に呆れてしまう。
単純な先生と生徒という関係から離れ、少しだけ歳の離れた友人かあるいは兄弟のような間柄だ、と主張するのは無理があるだろうか。

結局、彼の家の最寄り駅で降りたはいいものの、家に訊ねたところで迎え入れてもらえるはずがないので、そこで暇を持て余すことになってしまった。
いや、素直に自宅に帰ればよいのはわかっている。とはいえ、せっかくここまで来たのだからと、周囲を散策することにする。ばったり彼に会えないだろうか、と、若干の下心を抱きつつ。

しかし、陽が傾き始めたとはいえ今は真夏だ。
先日梅雨明けも発表され、その暑さはますます苛酷になってきている。
歩き始めていくらもしないうちに汗が滲んできた。
これはいけないと、目についたコンビニに避難することにした。

コンビニの中はひんやり涼しいかというと、それほどでもなかった。
自分と同じ考えなのだろう。涼を求めて入店した人々が溢れているせいで、妙に蒸し暑い。
ぬるい風を運ぶサーキュレーターも店内に設置されているが、どれほど意味があるのか不明だ。
不快感の原因は、他にも口の乾きがあるだろうか。そういえば昼以降水分を取っていなかった。

冷えた飲み物だけ買って、早々に出てしまおう。そう考え、適当な飲み物を手に取ると、会計を済ませた。
袋にも入れずに手に持った飲み物で、手のひらをささやかに冷やしつつ、外に出ようとしたら人とぶつかりかけてしまった。
しまった、前方に意識を向けていなかった。
謝ろうと顔をあげて相手を見ると、それは見知った顔だった。彼だ。まさか本当に会うとは。

しかし、その姿は見慣れたものではなかった。
赤いジャージは上下長袖だ。真夏に暑くはないのだろうかと思うが、よく見るとだいぶ汗ばんでいる様子だ。だが、そこは問題ではない。

まず、髪が長い。すこしウェーブをかけたその髪はウィッグだろうか。わずかに漏れている地毛との質の違いを感じる。
それに無造作に長いそれは、元が刈り込みを入れるほど髪が短い彼の姿を知っていると、違和感が強い。
赤いジャージの上着、その下に見えるのはブラウスだ。リボンをあしらったそのデザインは、明らかに女性ものだ。
そして、腰元にスカートを履いている。ブラウスと併せて考えると、どこかの学校の制服のような服だ。
彼の家で授業をする際、何度か彼は学校の制服のままだったこともあるが、その時は男子用の学ランだった。
そう、間違っても女子用の制服ではなかったはずだし、ウィッグも被っていなかった。

彼は今、女の子の格好をしている。
つまり、女装しているのだった。

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俺の初恋は鏡の中の『彼女』だった。

幼い頃、どういう内容だったかは覚えていないが、親戚の集まりがあるという事で母の実家に行った事がある。
新幹線や電車を乗り継いでようやく着いたそこは、大人ばかりで、一番歳が近いという従姉とも10歳以上差があったと思う。
そんな見知らぬ大人に囲まれて緊張したせいという訳でも無いが、移動の疲れもあり、幼い自分は食事会の途中でついつい眠り込んでしまった。
そのまま大人たちの酒盛りが始まり、終わってからもなかなか起きられず、ビジネスホテルを予約していた両親は一晩だけなら大丈夫だろうと自分を置いて行ってしまった。
あとから聞いた話では、久しぶりの実家という事もあり、気が大きくなっていた母がしこたま酒を飲んでしまったらしく、寝ていた自分の面倒まで手が回らなかったらしい。

そして、真夜中に起きだしたところで、知らない部屋にひとりきりにされている事に気がつき、不安と恐怖から大泣きしてしまった。
その声を聞いて、隣の部屋で寝ていた従姉が様子を見に来てくれた。大人たちから自分の面倒を見てくれるように頼まれていたらしい。

兄弟に憧れていたという彼女は、ぎこちないながらも幼い自分をあやしてくれた。
泣き疲れた自分も、よくよく見ればそこが寝る前までいた母の実家だと気付き、優しいお姉さんの存在もあって落ち着きを取りもどした。

そうすると今度は、中途半端に寝てしまったせいで元気が有り余ってしまい、従姉に遊びをせがんだ。
しかし、時間は真夜中。具体的な時間は覚えていないが、騒ぐと寝ている家族も起きてしまうし、近所迷惑になるだろう。
それに、女の子である従姉には、幼い男の子の遊びなど分からない。
恐らくそんな理由からだと思われるが、従姉は自分に『変身ごっこ』を提案した。
『変身ごっこ』といっても、日曜の朝にやっているヒーローになりきる訳ではなく、普段の自分と違う姿になろうという事だった。つまりは着せ替えごっこだ。

従姉は自分に少し待つように言うと、隣の部屋に戻っていった。そして戻ってくると、手に何着かの洋服を持っていた。
従姉のお古であろうその洋服たちは、大切にしまっていたらしく、古い服のわりに、防虫剤の匂いがする以外目立った汚れなどはなかった。
ほとんどの服は大きさが合わず、着てもぶかぶかだったが、一着だけサイズがピッタリなものがあった。

白地にほんのりと水色がついたようなワンピースだった。
ワンピースどころか、スカートも履いたことも無かった自分は、袖を通したところで座りの悪さのようなものを感じたが、従姉はお姫様のようによく似合っていると褒めていた。
せっかくだからと、昔使っていたという帽子をかぶせてもらい、色付きのリップクリームまでつけてくれて、自分を姿見の前に連れていった。
女の子の格好をした自分なんて、ダサくて嫌だな。そんなことを考えながら鏡を見た。

かわいい女の子だった。
主張の強くないワンピースは、なるほど、客観的に見てもよく似合っている。
帽子もつばの広さのわりに派手には見えず、髪の短さがうまくごまかせている。
ほんのりと色のついたリップクリームが照明を受けて光り、自然と顔に目がいくようなアクセントになっていた。
驚いたようなその表情は、その女の子が他にどんな魅力的な顔を見せてくれるのか期待させるようだ。

そんなことを考えたところで、なぜだか照れてしまい、思わずはにかむ。が、視線は相手にくぎづけだった。
すると、鏡の中の女の子も自分に笑いかけてくれた。かわいらしい彼女にお似合いの、控えめなはにかみ笑顔だった。

そこで自覚したのだろう。
幼い自分は、俺は、鏡の中の『彼女』に恋をした。

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母の実家に行ったのはそれきりだった。
どうして行かないのかは聞いたことが無いが、疎遠になったという訳ではないらしく、たまに連絡を取り合っていることは知っている。
初恋の『彼女』にもそれ以降会っていなかった。

それから数年経ち、高校受験を控えたころ、俺はストレスがたまっていた。
ちょうどそのころ、父が務めている会社が規模を縮小させるという話があがっており、それに伴って父も仕事を変えるかもしれないと家族に説明していた。
その影響で家庭内は雰囲気が悪く、お金をなるべくとっておきたいとの理由で、通っていた塾も辞めさせられていた。
家にいるのも苦痛だが、逃げ場所のひとつを失ってしまい、どうしようもなくなってしまっていた。

そんな中、ある日、俺は『彼女』のことをふと思い出した。
いや、思い出したというと間違いかもしれない。『彼女』の存在は、常に頭の片隅にあった。
正確には、『彼女』に会いたくなったのだ。

それは受験や家庭のストレスからの逃避先を求めてのことだったのかもしれない。
その次の休日、俺は量販店に足を運び、『彼女』に会うための準備をした。

準備は入念に行なった。幼い頃とは何もかも違うのだ。
幸いといってよいのか、俺は線が細いほうだった。太らないよう気を付けていたので、脂肪もあまりなく、余計な筋肉もつけていなかった。
ひょっとすると、今までも無意識に『彼女』の影を追っていたのかもしれない。

『彼女』に会える期待、『彼女』が『彼女』ではなくなっているかもしれない不安。
混ざった感情は、不思議と不快なものではなく、これが恋の楽しみなのかもしれないと思った。

そして、『彼女』との再会の日を迎えた。
鏡の中の『彼女』はあの頃よりも大人になっていた。

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無事に受験を終え、俺は高校生になった。
その頃には父の進退も決まり、今まで通りの生活が続けられるとのことで家庭内も元の安寧を取り戻していた。

俺は『彼女』との逢引きを続けていた。
『彼女』は用意した服やアクセサリーを身に着け、俺を魅了し続けていた。
逢引きはしかし、だんだんに終わりを予感させていた。

高校一年生の秋頃から成長痛に悩まされるようになった。
今さら成長期もないだろうに、背はグンと伸びて今まで普通に着ていた服も合わなくなってしまった。
そして、『彼女』もそれは同じだ。着られる服が減ってしまい、『彼女』に会う頻度も減ってしまった。

そんなある日、深夜に両親が俺の目を避けるように話し合っているのを聞いてしまった。
俺の部屋に女性ものの服や化粧道具があるのを、母親が発見していた。『彼女』の存在がバレていたのだ。
盗み聞いた話によるとそれはだいぶ前から分かっていたらしく、家庭内の不穏な空気から思春期特有の逃避をしていたのだろうと思われていたようだ。
しかし、受験も終わり、家庭の問題も解消しても未だに続けているのは何らかの病ではないのか。そんな話だった。

病は病でも、恋の病だ。
だが、そんなことを言っても両親をさらに心配させるだけだろう。
何より、この恋心をだれかに明かしてしまうつもりなど毛頭ない。

俺は『彼女』を手放すことにした。自分の初恋の女の子を演じることを辞めたのだ。
用意していた衣装や小道具はすべて処分し、自分の気持ちを封印した。
ゴミ袋に詰め込んだ彼女との思い出たちは思いのほか多く、冷静になった今、どうしてこれでバレていないつもりだったのか不思議だった。

そして、そうしたことは両親も気が付いたのだろう。
『彼女』との思い出をすべて処分した次の日、俺が『普通』になったのだと言葉には出さずとも嬉しそうにしていた。

『普通』になった俺は、勉強に打ち込むようになった。
比例して学校の成績も上がり、担任の教師からはだれもが一度は聞いたことがあるだろう有名な大学への進学を勧められた。
目標もなく勉強をしていた俺は、それになんとなく従い、そして無事に進学することができた。

『普通』の大学生として、周りにとけこみ。
大学の知り合いに誘われ、中学生相手の家庭教師のアルバイトをなんとなく始めた。
そうして漫然と過ごしていくなか、彼に出会い、そして。

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「え……?」
口から漏れ出た音に意味はなかった。
彼の姿を見て、なぜか『彼女』のことを思い出した。別に彼が『彼女』に似ているという話ではない。むしろ逆だ。
なんだ、このふざけた姿は。と、強い怒りを覚えた。

髪の長いウィッグは、買ったものをそのまま被っているのだろう。いかにも安っぽい作り物という雰囲気だ。
暑かったのだろうか、わずかにまくられた袖からは、男性の筋張った腕が覗いている。腕のムダ毛もそのままなのが気持ち悪い。
無駄に短いスカートから本来見えるであろう脚は、ジャージで隠されているが、この分だとそちらもそのままなんだろう。
つまり、男が『女装』しているだけだった。
こいつは、女の子になっているわけではない。『彼女』とは程遠い存在だ。

彼と仲良くなっていく途中、無意識に心の中で期待していたのかもしれない。
彼なら、会えなくなってしまった『彼女』に代わってくれるのでは、いや、『彼女』に会わせてくれるのではないか、と。
自分勝手なこととはわかっているが、裏切られたような気分だった。

しかし、この怒りは本物だ。自分で抑えられるようなものでは到底ない。
知らず、こぶしを強く握りこみ、目に力が入ってしまっていた。

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先生は一瞬呆けたあと、僕を力強くにらみつけた。先生のこんな表情を見るのは初めてだ。
どうやら、『イメチェン』をしていても僕だと一瞬で気がついたらしい。

「君は、何をしているのかな」
表情に合わせたような低い声で、先生が問いかけてくる。
「さ、散歩です……」
落ち着いて答えようとしたが、声が震えてしまった。
「そんな格好で?何の意味が?」
「えっと、じ、実はこの姿は罰ゲームなんです……!」
詰問する先生は、まったく表情を緩める様子がなく、動揺が収まらない僕はとっさに、知り合いに会ってしまったときの言い訳を話してしまった。
「罰ゲーム?じゃあその姿は君の本意ではないということ?」
「そ、それは……」
僕が口ごもると、先生は小さくため息をついて表情を緩めた。

「いいかい、君にはピンとこないかもしれないけど、君が無理やりそんな格好をしているとすれば、それはイジメに他ならない。そうだとすれば、俺は君にそれを強制した相手と話して、反省させなければならない」
俺は君の保護者みたいなものだからね、そう付け足した先生はすっかりいつもの表情にもどっていた。
そんな先生を見て、少し冷静になれた。そして考える。

そもそも、この姿は先生のために始めたものだ。
それならば、先生にそれを伝えても良いんじゃないだろうか。
思っていたよりも早いといえばそうだが、いつかは来る話だ。それが今になったというだけだ。

「実は、『イメチェン』したかったんです」
「イメチェン?」
僕の答えに、先生が怪訝そうに答える。
「はい。僕は、先生のようになりたかったんです」
そう言うと、先生は顔をしかめたが、気にせず続ける。
「でも、僕は先生と真逆の人間なんです。僕は先生になれない。だから、せめて先生の『一番』になろうと思ったんです」
そこまで言って、僕は先生の目をまっすぐ見た。
「どうすれば先生の『一番』になれるか分からなかったから、先生の隣に『一番』いられるような自分になりたかった。だから、『イメチェン』をしたかったんです」
言い切った僕は胸を張って先生の返事を待つ。

先生はしばらく黙っていた。僕も黙っていた。

どのくらいそうしていたか、ようやく先生は口を開いた。
「君は君の言った通り、俺とは、『彼女』とは真逆だ。君は俺にはなれない。俺の『一番』になることはない」
そう言い放って、先生は僕に背中を向けて歩き出した。

僕は、その背中を眺めながら、動けなかった。
君は俺にはなれない。その一言が、心に重くのしかかっていた。

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夏休みが終わった。
先生は夏休みの間に家庭教師の仕事を辞めてしまったらしいと母親から聞いた。海外留学をするためとのことだった。

僕は『イメチェン』を諦めた。意味がなくなったからだ。
その代わり、受験勉強に力を入れた。夏期講習が終わった後、親に頼み込んで、塾にも通わせてもらった。
その結果、元の志望校よりも偏差値が高い学校を受験し、合格することができた。
高校では部活などもやらず、ひたすらに勉強に打ち込み続けた。
そして、先生が通っていた大学に進学した。

大学生活はなんとなく、周りに合わせて過ごしていた。
どこに出しても恥ずかしくない、一般的な大学生だ。

街を歩いている途中、なんとなく建物のガラスに映った自分の姿を眺めてみた。
無難な服、無難な小物は自分によく似合っている。
そしてふと、先生のことを思い出した。
いや、思い出したというと間違いかもしれない。先生の存在は、常に頭の片隅にあった。
正確には、自分の姿が先生と被って見えたのだ。

いつの間にか、僕は先生のようになっていた。
あの頃憧れていた存在、そのものといって良いだろう。
夢を叶えたといってもよいのかもしれないが、胸の中は寂寥感が占めていた。
あるいは、この程度だったのかという失望かもしれない。

前方に視線を戻すと、向かいから長身の女性が歩いてきた。
淡い水色のワンピースを着た『彼女』は、ストールでごまかしているがよく見ると肩幅が広く、喉ぼとけも出ている。どうやら『彼女』ではなく『彼』だったらしい。
しかし、街を歩くその姿は堂に入ったもので、凛々しく見える。

「カッコいいな」
歩き去る背中を見送りつつ、そうつぶやいた。

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