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スパビーの伊集院は本当に強いという話【妄想編】

スパビーの伊集院は本当に強いという話【蹂躙編】の続きです。

【蹂躙編】では、伊集院から悪としての格の高さをバシバシ感じられる ①魂を蹂躙してくる②ルールの枠組みを超えてくる③本気で大切にしてくれる仲間がいる④強さがもう真理の域である のうち、③まで書きましたので、続きの④を書いていきます。


④強さがもう彼にとって真理の域である

またエライ書き方ですが、簡単に言うと伊集院は自分の強さを普通ではないそれはそれは超強固なレベルで信じているのではないか、ということです。

伊集院が実際にどれだけ強いかは【蹂躙編】で書きましたし、周知の事実かと思います。しかし「④強さがもう彼にとって真理の域である」に本当に大切なのは”実際に”どれだけ強いかではなくて(そっちも勿論大切ですが)、伊集院自身が「オレは強い」をどれだけの強度で”信じているか”だと思うんですよ。書き方が難しいのですが、彼が自分の強さをどれだけ自明のもの、揺るぎないもの、絶対のもの、自然なものと信じているのか(正直「信じている」という書き方も適切ではないです)。まさしく己の強さを己の真理と言って差し支えないレベルで扱っているのか。

これはただ自信があるとかプライドがあるとかの次元とはまっっったく違います。

ここで格の話をしますが、他の作品で格が高いと感じる悪役は、「やり方は賛成できないがこの人にハッキリと反論できる人間は誰もいないのではないか?誰もがどこかでここまで強く自分を信じられる姿に憧れてしまうのではないか?」と思わせられる悪役が多いです。「是非はともかくこの人は凄い。それは認めざるを得ない」と思わせる説得力」は、その悪役の主張が現実的に真実であると同時に、本人がどれだけの強度でそれを信じているか、どんな反論をされても揺るがずにいられるかも大きな要素になります。その主張が己と不可分の要素であり、いつどこで誰に対しても(もっと言うならたとえ神に対しても)同じ強度で主張できるということ。

伊集院も、平凡な人間は決して到達できないレベルで自分の強さを信じています。負けそうになった時、自分の骨をブチ折ってでも勝とうとするキャラ他にいませんよ。しびあこ。


④-2バトルを通して見せつけられる真理

私は具体的に起こっていることの背景にある意味付けを考えるのが大好きで、こういう記事(【ビーダマンバトルは決闘】スパビーのカッコよさと少年たちの自治について スパビーの北条明は何故男のフリをしていたのか20年ぶりに考えた )を書いたりしているのですが、今回もついついそういうことを考えてしまいました。楽しい。(これ読んでくれている方には絶対不要だと思うんですけど、伊集院がどうしてこんな気合入った悪役になったのかは、上の「スパビーの北条明は~」の記事にちょっと書きました。一応)


伊集院は大会に参加しバトルを通して常に「オレは強い。誰もオレに勝つことはできない。刃向かうものは愚かである」という真理を周囲に見せつけているのではないかと感じました。それも、魂を蹂躙しながら衝撃的に徹底的に。意識的に「見せつけたい」かは微妙なところですが・・・。そしてこの強さはビーダマンだけに限ったことではないでしょう。


「自分は強いんだ」ということを殊更に主張する人間は、本当は弱いかもしれないという恐れや他のコンプレックスを持っていることが多い(病んでいた頃のサラーなんかはきっとそう)のですが、私は彼からそういう不安をあまり読み取れませんでした。

『破壊されたかれの心が、最後のよりどころとしているのが強さに対する執念』であり、『すべてを威圧し勝利することで、心のキズをいやし』てはいるけれど、それは決してされるべきではなかった己への屈辱的な扱いに対する怒りに対処しているのであって、恐れを覆い隠そうとしているわけではないんじゃないでしょうか。

また、ラスボスのマダラのように自分の未熟さが良く分かっていないという面もありません。彼はおそらく他のどのキャラよりも、今ここがどういう場でどういうルールが適用されていて自分が他人からどう見られているかを客観的に把握できている大人びたキャラかと思います。

ですので彼には「強くありたい」「強くなければならない」「強いと思われたい」「強いと証明したい」なんて気持ちはなくて、ただただ「オレは強い」という圧倒的な真理があるだけなのではないかと思います。


④-3勝てるのはタマゴだけ

物語的には、伊集院に勝つには、現実的なビーダマンの実力・機体性能という面だけでは足りません。具体的なビーダマンバトルの裏では、別の戦いがなされているからです。彼の真理にも打ち勝つ必要があります。しかし単なる自信やプライドでは太刀打ちできません。伊集院はそんな程度ではないからです。恐ろしい顔芸を披露し背後から悪霊的なものを出現させ己の骨をブチ折りながら全身全霊をかけて押し通そうとしてくるその真理と同等以上のある種異常なものがなければ勝てません。

そしてその異常さを持っているのはおそらく作中でタマゴただ一人だけです。タマゴは1話から最終話まで一貫して「誰とのどんなバトルでも全力で戦う」という姿勢をとっており(猫丸除く)、それこそが伊集院の「強さ」という圧倒的にシンプルで強力な真理に対抗しうる主人公側の真理だったのではないかと思うのです。

例え圧倒的に不利なフィールドでもルールでも相手がイカサマ野郎でも魂鉛色のおっさんでも愛機を破壊した相手でもビーダーですらなくても身に危険が迫っていてもその勝敗にビーダーの未来が賭かっていても、どんな状況でもどんな相手でも変わらぬ闘志で闘える、それには、「全力でビーダマンバトルする」が真理のレベルになければ不可能なことだと思うのです(猫丸除く)。

そして、伊集院が本当は求めていた男の闘い、何があっても全力で魂をぶつけ合うことは図らずも達成されることとなります。タマゴの真理が本当は伊集院が求めていた、けれどかつて手に入れることができなかったものとほぼ一致していたから、彼は彼の真理から解放されたのではないかと思います。


とにかく、超強敵・伊集院圧政がいかに悪として格が高いかについて思いつくままに書いてみました。何回「伊集院」って書いたんだろう。この記事を書くきっかけの一言をくれ、色々と私の考察に付き合ってくれた伊集院推しの知人に感謝です。


以下妄想です

ここからは完全に、伊集院がなんでテニスの試合であそこまでブチ切れたかについての私の妄想です。上の文章もできる限り作中で描かれたことを根拠にして記述したつもりですが、どうしてもこの辺を妄想で補っていたので書いておきます。

お金持ちで良いおうちのお坊ちゃんである伊集院圧政くんは、幼少期から環境や才能に恵まれ何でも一番上手にでき、身近にライバルといえる存在がおらずずっとつまらない・寂しい思いをしていた。テニスでは全国ジュニアベスト4であり少なくとも3人は同等以上の子がいたようだが、それもきっと他3人はガチでプロを目指しているのに対し伊集院だけはただのスポーツの一環としてやっていただけ等でどこか温度差があった。周りの子が一生懸命頑張っても可哀想なくらい自分には及ばない、角が立たないようにさわやかに周りの子の頑張りを認めてあげたり良いところを褒めてあげたり時にはこっそり手を抜いてみたり。明るく皆からも信頼され自信に溢れた人間として過ごしていたけれども内心つまらない。そんな時にサラーが身近なライバルとして現れ、とっても舞い上がる。「ずっと自分は強いということに飽き飽きしていたけれど、これで対等の、全力の闘いができる」!

しかしああいう結果になってしまい、伊集院は思う。「実はサラーにとって自分は全然対等ではなかったのでは?自分が周囲の子たちに対して接してきたのと同じように、角が立たないようあからさまにバカにしなかっただけで、本当は弱いのに勘違いして可哀想と思っていたのではないのか?」

サラーの存在を喜んだ分だけ屈辱と怒りが生じて人格崩壊に至る・・・と。

もしタマゴやガンマが伊集院の立場だったらテニスの試合の後、やっぱり納得できないと再戦を挑んで済んだ話だったのではないかと思います。そうならずにサラーが試合放棄した時点であそこまでブチ切れてしまうのは、さわやかイケメン時代から実は誰も気づかないけれど少し病んでいた部分があったんじゃないだろうか・・・と妄想してみました。

大変楽しいです。


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