「虚と愛のあわいに」 (恋する惑星論) 

   さて、何から始めようか。ウォン・カーワァイの映画を繋ぐことは、彼に連れられて悪夢に入り込むようなものだ。完璧なる虚実の中でひそひそと囁き声が聞こえ、あなたは夢想の中で鑑賞し、息を殺し、クーラーの音や映写機の音、フィルムの回る音に混じって、愛(これも虚実だとはどうやら言えそうだ。)ねえ、あなた、この抵抗出来ない「悪夢」に浸ることこそまさに愛そのものだと言えやしないだろうか。私は眠る、永遠に眠る、誰も侵さないように眠る、きっとこれは不治の悪癖、バックコーラスが遠くから聴こえる。私はこの自己記録を558回も繰り返している。救われていいはずなんかないのに、救われたいと思う愚かさ、「恋する惑星」に、そう、私は愚かにも救いを求めている。昏睡状態で息を止めながら、もうこの永遠に終わらない夜の絶望にどうやら私は馴染んでいるし、親しみさえ感じるほどであるようだ。そう、たまには時間が必要なことだってある、時間に限りがあることを私はいつも「恋する惑星」を観ながら忘れてしまう。たゆまないひと時、一瞬、この不可思議な現象を認めようと認めないと私は人魚が魔法に罹ったように、また今日もでたらめな詩(うた)を歌っている。自分に足が生えていることを確かめる。実は現実では時間は永遠に過ぎている、そのことを知ることは無駄なことだとは思いやしない。眠りながらもだって、重慶マンションではあの金髪の女が助けてほしいと叫んでいることだし。カーワァイは空から急降下し、一撃即中する、そして小声で訴える、この世界は寒い、白い磁器のような肌をしながら、まだ美貌を保っているなんて!


来年は「恋する惑星」にもう会えないかもしれないからこの記事を書いた。だが、運よく、この作品に巡りあったのであれば、心を取り戻す、そして、懐かしさ、色とりどりの景色、シークエンス、ものの豊かさと、感情の激しさ、楽しさを思い出すだろう。この映画の女性は神秘的で寂しい行く宛てのない女(だが、自決する時のために拳銃は放さない)、自分一人で作り上げた世界で風変りに生きる女(彼女にとっては飛行機で飛ぶこと、その中空が心地よい現実だ!)麻薬の密売、警官、暴力、セックス、時間的融合と遊離と誤解、愛情の疎ましさと清らかさと激しさ。速く走れれば走れるほうがどうやらいい。身体がばらばらになればなるほどどうやらいい、細胞が細胞でなくなるほどどうやらいい。警官223号。涙は永遠を意味し、囲まれたものを一掃し、ものの消え果てた水の中、警官663号のスチュワーデスは遠く早く逃げて行く。ちょっとふらふらしながら、夢見がちな女の子フェイは逃げるような無駄なことは一切せずに、人の家に悠々と自分の世界を築き上げる。(愛の動機はいつだってこんな奇妙な具合にやってくる。)彼女たちには社会的なあるいは政治的な感情というものは一切ない。けれども、ある種とても強いパッションと何らかのものを愛する頑なな意志がある。それらが一見彼女たちを苦しめているようでもあるが、そんなことはないのだ、都市の入り組んだマンションの炸裂した風景、アイデンティティ喪失に対する危機感の板ばさみ状態から脱するためではあるものの、それをそのままのかたちで鵜呑みにするようなことがあってはならない。まるでこの固定化した時間と愛は近代詩の宝石のようだと私は最大限の賛辞を送りつつも、ちょっと油断すると、自身の無気力を欺くための映画に過ぎないと思い込む癖がある。一方で、この女性の対比関係は構造的な類比関係からいえばあまりにも直接的すぎて安易であるという側面もあるにはあるが、無気力を決め込む大衆に反して、この映画の中の音楽が奇跡的にその安易な動機を避けている。「ああ、度忘れしたみたいです。一体なんだったのか。分からない。何も思い出せないんです。」「あなたはどんなものだって言葉に表すことが出来ると自惚れていたのでは?」「もう、私のことも好きじゃないんでしょ?」「説明できない」「どうしようもないのだ」外では工作員が走り回っている。銃弾の音。大都会であれば大都会なりの寂しさや法則というものがある。映画は依然として成立し、何かを吹き飛ばすための動機ではありつつも、一切の虚構を撥ね退けるのだ。それがわたし?永遠に壊れないはずのものなのに、何かが始まり、広東語以外の言葉がつららのように雪崩のように押し寄せてくる。耳を塞いでもどうしようもならないやるせなさ。架空。虚空。偽る者。可能な限りの疎外感。パラノイア的缶詰の賞味期限。今日はどうやらパイナップルが好きなようだけど、明日はもしかしたらリンゴを梶っている。どちらにせよこのやり取りは不毛だ。言語によるコミュニケーションがすべて拒絶された後で、震えがとまらないまま、同時にあっけらかんとしながら、狂ったように電話をかけ、シリアルナンバーの下四桁は6689だ。ポケベルは捨てられる。飛行の始まりだ。



これら4人の人物はコミュニケーションの手段は無論のこと言葉ではない、何か、何か、何か、朦朧とした意識の中でゆるやかに呟かれるモノローグという辛うじて成立している意思疎通という手段。さあ、話を聞き終わったら、この現実からとっととおさらばしようじゃないか。あまりにもこの現実は汚らわしく、あまりにも退屈で、檻の中に閉じ込められているようだと4人の人物は示唆している。だが、人々の心の内的な変化は何も起こらない、すべては諦められたようでもあるが、観客はその場に踏みとどまり続けるのだ。どうやら長い間放っておかれた人間たちは本来何の用事もないにも関わらず、奇妙なことを狂気じみたことを始めてしまっているようだ。外ではどこか見知らぬ風景、景色、1年後の同じ日の夜、誕生日を祝うメッセージ。「そうあなたは言うけれど、無駄だ。おれにはどうすることもできないのだから。何も変わらないってあなただって気づいているだろ」「ちがう、これ以上先には行きたくないの」「もうここまできてるんだから、あの地平線の彼方を見たいとは思わない?」そこに人というものはいなかった。誰もが息を潜めていた。イソギンチャクとか、尖った貝殻とか、得体の知れない色とりどりのサンゴ礁があったけど…人はそれに気づかない。彼女たちの言わば終わりなき反抗と世界の受容はある可能性を示している。破壊工作活動をしながら、やがて世界が真っ白に染まり、息づくかもしれないと。そう。非特異性のある存在たちによる特徴。こういった分類に私はもはやうんざりしていることは事実ではあるが、「恋する惑星」の時間は止まっているので、しばらくの間、何らかの優しさが心を射抜く。正体は分からない。映画ってそういうものではないのか。意味なんて何にもなくていいのではないのか。ただ輝きを示す、ひゅっとそのフィルムレートが記憶の彼方と共に飛ぶだけだ。ぬくもりなどなくとも、なんで説き伏せられてしまったのだろうと私はいつも残念に思う。騒音が、においが、雰囲気が、とおい昔に感じたこと、とおい昔に射抜いた心のこと、とおい昔に既に産まれていたということを、広く明るい何者かたちが充満している大きなスクリーンのある部屋で、道徳心がどうだとか、規則がどうだとか、倫理がどうだとか、そういう下らないことをいうものはもはやいなく、この幻想の世界に留まっていたい。人間ではないものを知ることは実際には不可能であるとしても、その可能性を追い詰めたいのだから。この映画を過剰宣伝することは出来ないけれど、魂の生まれながらの清らかさについて、一種の鼓動、脈拍、音色、自然と涙が溢れてくる。「下ろしてください。機長さん。もう私は行きたくないんです。日本発香港行きのチケット、フライトナンバーUA66788954、663便。」「あなたねえ、毎度毎度困りますよ。一体何度このやり取りを繰り返すのですか?」飛ぶことの出来る大きな鉄の塊、横に見ても、縦に見ても、鳥のように見えないのは何故?目の前のボタンをあちこち押す、液晶には何も映らない、GとHは窓側だ、私はCにいる、いつもCだ、なんでいつもCなんだ、Cは通路側だ、何十時間も眠っていなければならない、私は窓側に移りたいのだ、ガラスを1枚、1枚見る、座席に座っている奴等を見る、どいつもこいつも顔がない。やれやれ。香港は天使の街だって?冗談じゃない。ビデオカメラを手にとって、窓に向かって私は叫ぶ、見渡す限り果てしない、でも空虚ではない、そして夢ではない。ホウ・シャオ・シェンだって、エドワード・ヤンだって、ロウ・イエだって、私と同じような行動をとっただろう。「君らはそんなに居心地がいいほうがいいのか?」


香港は実際のところ、神々が住むような場所ではなかった。目を開いたままで夢遊病者のようになりながら、私はシャッターを切って、レックボタンを押して、世界はどこまでも繋がっているなあ、いろいろな異なった種族と異なった背景の人々がたくさん住んでいる建築物がいっぱい見えた。本当に行く気になるなら「恋する惑星」の世界に行くことは恐らく出来るが、どれくらい時間がかかるか分かったもんじゃない。私だって映画を撮っている。記憶のように見せかけを与えることだってできるんだからな、その手には乗らない。MTV感覚。CSV患者の症状。パラノイア的疾患。時間が止まっていたって、別に驚きはしない。馬鹿げた質問を聞いたことがある。香港の97年の返還の隠喩だって?そういった意味を見出すものはこの映画に救われることは決してあり得ない。こういうことを喋りつづけるものはどんな物事でも自分と関わりがあり、永遠に喋り続けるのだから、まずはこの質問者を黙らせねばならない。口を封じ、みな殺しにしなければならない。自意識に狂わなくても、政治に狂わなくても、芸術に狂わなくてもやっていける、実際のところ、何に愛着を覚えるか定かではないが、そのことを考えると気が狂うので、静かに黙っていなくてはならない、それが観客らしい態度だ。トニー・レオンもフェイ・ウォンもあなたたちのことはお呼びではない。恐怖のみではなく、一切の拘束から解放し、そうだ!愛情を注がなくては、早く、鳥たちに捧げなければ。

いつの間にか風は完全に止み、辺りを見回したが、どうやら人間らしきものはいないようだ。狂っている?いま、この瞬間に映画を撮っているものが一体何人いるか知らないけれど、誰がこれを始めたのかはしらない、法王、聖人、ブッタ、ソビエト、議会、独裁者、ヨーガ行者、アナーキスト、極左、ファシスト、詩人…エトセトラ、いろんな天才たちがひた走っているようだけれど、でも誰も本来の現実に辿りつくことが出来ない。映画を始めたものはこのような例のように自分自身を終わらせることは出来ない。

私の脳裏の中で「恋する惑星」は上映され続けている!今、11228回目。
奇跡はまだ近づいてこない。
だが、奇跡のほうが待ち望んでいることだってあるかもしれないじゃないか!


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