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最終話について(大豆田唄とは一体なんだったのか?)

昨日6/16に最終話を迎えた『大豆田とわ子と三人の元夫』だが、個人的には最高の最終話だったと思う。9話でとわ子の恋愛についての答えを明らかにしておいて、最終話では3人の元夫をはじめとするとわ子の周囲の人物の現在と未来について、また、(「網戸」という1話からとわ子に纏わりついていたモチーフを用いてその伏線を見事に回収するように)とわ子の自分自身の人生について語られている。

この9話で本筋は完結し、最終話ではウイニングランのようなある種、蛇足的な構造になっているのは本作に漂う優雅さや上品さに沿っており、無駄なようで実は本作品におけるまだ謎であった伏線をゆっくりと回収しているように思う。

例えば、1話が始まってすぐに登場した「網戸」というモチーフ。とわ子の家の網戸を治せる人と結ばれるのだろうという明らかな仕掛けがあり、それを達成しそうな小鳥遊という登場人物が現れる。が上手くいかず、父親のことを受け入れるとともに父親が網戸を治し、最後にはとわ子が1人で治すことのできなかった網戸を1人で治すことができるようになる描写で予想を裏切られる形で見事に伏線を回収する。

また、部下にクロワッサンのカスがぽろぽろとこぼれ落ちることで幸せを落としているのだと聞かされたとわ子がそれまではこぼさないように千切って食べていたりした描写があったが、最終話でとわ子が菓子パンにかぶりつくシーンで全てが完結する。(そのシーンでのナレーションが「これ、大豆田とわ子」であることも印象深かった。それ以前は「これ、○○をしている大豆田とわ子」というナレーションしかなかった。)

一方で、最終話では各話を通して小出しになっていた「時間」という主題についてもより強固な展開があったが、それはとわ子の娘である大豆田唄を通して視聴者である我々は感じ取れる仕組みになっている。

最終話における「時間」について言及する前にまずはこの作品におけるユニークな点について述べておきたい。全話を通して見たときに直感的に重要そうだと思えるフックとなる台詞が多くある一方で、難解なものが多く完璧に理解出来たと思う視聴者はなかなかいないのではないかと思う。

例えば、全体を通しても最も印象的でもあるオダギリジョー演じる小鳥遊がとわ子と朝のラジオ体操終わりにベンチに腰掛けて、親友であるかごめを亡くしたとわ子に向けて放ったなかなか長いこの台詞である。

人間にはやり残したことなんてないと思います。過去とか未来とか現在とか、そういうものって時間て別に過ぎていくものじゃなくて、場所っていうか別のところにあるものだと思う
人間は現在だけを生きてるんじゃない。
5歳、10歳、30、40。その時その時を懸命に生きてて、過ぎ去ってしまったものじゃなくて、
あなたが笑ってる彼女を見たことがあるなら、今も彼女は笑っているし
5歳のあなたと5歳の彼女は、今も手を繋いでいて
今からだっていつだって気持ちを伝えることができる。人生って小説や映画じゃないもん、
幸せな結末も悲しい結末もやり残したこともない。
あるのはその人がどういう人だったかっていうことだけです。
人生にはふたつのルールがあって、
亡くなった人を不幸だと思ってはならない。生きてる人は幸せを目指さなければならない。
人はときどきさびしくなるけど人生を楽しめる。楽しんでいいに決まってる


この言葉を聞いてとわ子は無意識的に涙を流すが、我々視聴者もその言葉の意味や理屈とは異なるところでの説得力を感じ、心動かされる一方で、この思想を自然と話し続ける小鳥遊の軽やかさにとても惹かれるきっかけとなったと思う。(その後、見事に裏切られ、またそれも裏切られることになるのだが……)

このドラマをまだ視聴していないうえでこの長い台詞を読んでもなんだか難しいことを語っているドラマなのか、と思い込んでしまうかもしれない。

実際、本作品は人間の幸せという難解なテーマに立ち向かっているのは事実である。しかし、客観的に見ても決して固くて難しいドラマとは言えないのはそう見せている仕掛けが数多くあるからで、その仕掛けを追っているだけでも笑えたりするとてもキャッチーなドラマであるとも言える。

ではそのキャッチーに見える仕掛けとは何か?最もキャッチーなのは主要登場人物のキャラクターである。三人の元夫を筆頭にとわ子や親友のかごめなど全員に共通しているのは大人であるにも関わらず、どこかに欠陥があるような子供らしさを兼ね備えていることだと感じる。

そして、それは視聴者という視点からすると、面白おかしく笑える一方で、そこまで極端ではないにしろ多かれ少なかれ現実とリンクして共感できる性格として自然と受け入れることができる。とわ子の優しいからこその不器用で頑固な性格も八作の口下手なところも、鹿太朗のケチなところも、慎森の理屈っぽさも、我々、覗き見の視点ではとても可愛らしく写り、極端だからこそこういう人いるなぁと思うエピソードが多く存在する。

しかし、キャッチーでドラマをより身近なものにする役割とは全く異なる機能を果たしている主要登場人物が1人だけ存在する。


それがとわ子の娘である大豆田唄である。大豆田唄は16歳の子どもであるにも関わらず、主要登場人物の誰よりも視座高く客観的な目線を持っている。
4度目の結婚が目前となったとわ子の恋愛相談もそうだが、建築の設計を仕事としていたが、現在は建築事務所の経営者であり、経営について思い悩むとわ子に対してのストレートかつシンプルな唄の回答は痺れた。

もうさ、頑張らなくてよくない?
前はさ方眼紙みるだけでニヤニヤどきどきしてたじゃん
あの頃のほうがよくない?

視座高く客観的な目線と述べたが、決して大人ぶることはない。むしろ、自分が16歳という子どもであることすら唄は自分自身で認識したうえで核心を突くような言葉を何度も放つ。

そしてその一見、大人ぶっているような発言がゆえに視聴者としては若干の違和感さえ感じてしまうかもしれない。

しかし、最終話でとわ子と喧嘩になる描写で唄の思考回路が垣間見える。

唄の彼氏である西園寺は医者を目指しており、唄も元々は医者を目指していたが西園寺の方が医者になる確率も、出世する確率も高いと判断した唄は自分が医者になるのではなく西園寺が医者になるための手助けをする方が合理的だと語り、西園寺は受験勉強を行っているため西園寺の宿題は唄が行っていた。

それを間違っていると言うとわ子に対し、唄は

知ってるけど。それが私たちの現実じゃん。西園寺くんを支える人になった方が生きやすいでしょ。
まあ、大人がそういうことを言うのはわかるよ。でもこっちはそういう現実(憧れていた医者が病院内でいじめられ辞職したことを指している)をこっから生きるわけだからさ。

と答える。

そして、西園寺の受験勉強中の買い出しのパシリも唄は快く応えていた。

とわ子はそれに耐えられず、唄の携帯を奪い、西園寺に憤慨し『大学に落ちてしまえ』と吐き捨てる。

年頃の女の子であれば、その母親の行為に怒り狂う姿は容易に想像できる。実際、唄は怒り狂うほどではないがとわ子に対して憤慨した。そこで直ぐに言った唄の言葉は次の台詞になる。

相手(唄の彼氏である西園寺)は16歳だよ。私が徐々に教育していけば済む話だよ。

この台詞から唄は16歳である自分自身を認識した上で、どのように生きることが幸福なのかを母であるとわ子から教訓として学んだ結果、今のような合理的な行動を取っていることが伺える。

つまり、重要なのは大人ぶっているようで実は全く大人ぶっているのではなく、現実を捉えたうえで16歳の自分が幸福になるためにはどう行動すべきかを思考しているという点になる。

そして、登場人物の中で唯一、客観的にものごとを捉えることができるという点において、唄は主題=核心について行動ではなく言葉として視聴者に提示できる人物となっている。(後に、とわ子を突き動かす行動をとることにもなる)

より分かりやすく述べるのであれば、このドラマはキャッチーな要素を三人の元夫をはじめとする大人が担保し、ドラマの主題=核心である要素を唄が16歳の目線で語る(時には台詞として語るのではなく演じることで語られている時もある)構造になっている。




かわいそうなおばあちゃん、かわいそうなおじいちゃん。かわいそうなママ。

とわ子の母であるつき子がマーと呼ぶ浮気相手に結局送ることなく残してあったラブレターを見つけ、つき子は好きだった人がいたにも関わらずそれを押し殺して後にとわ子の父となる旺介と結婚し、暮らしていたことをとわ子と唄は知る。唄は全員がかわいそうだと語る。

とわ子はまだ子どもだった自分のために我慢をさせてしまった、とつき子を推測するが唄はそんなことは分からないと述べ、マーに会いに行こうととわ子に提案する。どうしても私は行きたいと言う唄に対してどうして唄が?ととわ子が尋ねると唄は


おばあちゃんが生きた過去は私の未来でもあるんだよ

と言い、とわ子の黙るカットが流れる。

(ここでの唄の台詞は前に記載した小鳥遊の台詞に近い何かを述べていることは分かる。しかし、まだその本意が語られていない。)

そしてマーと直接話すことで、マーからつき子は家族を愛していたことを、幸せだったこと真実を知らされることとなる。
とわ子はつき子に感じていた負い目が意味のないものだと気付き、マーに心を許しまたお会いしたいと言う。
そして、楽しそうに台所に立つ2人の後ろ姿を微笑みながら見守る唄のカットが流れる。(その後、CMを挟んで台所に立つとわ子と唄のシーンになる→大豆田唄のとわ子の人生を反面教師ではなく幸せな人生だと受容していることを暗示?→大豆田とわ子の人生は大豆田唄の人生でもあるに繋がる?)


この唄の微笑むカットは

かわいそうなおばあちゃん、かわいそうなおじいちゃん。かわいそうなママ。

という唄の台詞から考えが変わっていることを示しており、このあと具体的な行動としてもう一度、医者を目指すことをとわ子に告げる。


つまり、時間が起因してもう二度と対話できない相手を不幸だと推し量ることは相手にとって失礼で、自分にとっても不幸であると実感したことで、憧れていた医者がいじめによって退職せざるを得なかった現実を自分の不幸な未来として現実になる可能性を推測することが無意味なことだと考えるようになったことを表す。

この展開はこれまでのとわ子の繋ぎ止めていたものを動かすきっかけとなる。

つまり、とわ子はかごめの死を不幸だと捉えていたが、小鳥遊は長い言葉によりそれは間違ってるのかもしれないと思えることができた。

一方で、言葉であるが故にかなり抽象的であり、実感としてなかったために今回、母であるつき子にも同じ(つき子は不幸だったのではないかという)感情を抱いてしまっていた。

しかし、唄に突き動かされ、行動することで不幸だと思っていたつき子が自分を愛しており、つき子自身が幸せだったと実感することになる。


そして、場面が変わり、とわ子がいまだに自転車に乗れないことを父は自分が教えていない責任であると感じており、とわ子へ愛情を注いでいなかったことを未だに後悔していると話す。しかし、とわ子は今も父の存在が支えになっていると語り、それならば今からでもいいから自転車の乗り方を教えてほしいと乞う。

それは、唄とマーの経験から、まだ対話できる関係なのであれば時間を超えても対話すべきという考えに変化していることが伺える。


最後になるが、唄は大人ぶっていないと指摘したのは対照的に三人の元夫やとわ子も子どもらしさが垣間見える一方で、子どもぶっているわけではないということが、もしかしたら重要かもしれない。子どもらしさを抱えていることがむしろ大人らしさであるという意味で。

だからこそ、パンにかぶりつく大豆田とわ子に対して「これ、大豆田とわ子」というナレーションでこの物語は完結している。

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