消費される街、その未来への文

 渋谷にパルコが戻ってきてから1ヶ月が経とうとしている。 
 2016年の夏、建物の老朽化を理由に閉店した後、更地から建物を新たに造り替え、2019年の11月にリニューアルオープンしたこの建物は、いま何を思いながらそこに存在し、どんな意味を受け持つことになるのだろう。

 渋谷はもともと絶えず変化し、雑多な文化を持つある種、特殊な街であったが、その変化はある時から徐々に悪い方向へ向かい、雑多さはそのままで、ただ文化だけが薄れていったように思える。そして、2016年の夏、渋谷パルコの閉店という事実によって、ゆっくりと、ぼんやり進行していた渋谷の衰退が目の前に現れ、それを認識せざるを得ない状況に“私たち”を追いやった。いや、そう思っているのは私だけなら?

 2019年のいま、10月31日が近づけば、若者は渋谷に集まり、ただ訳もなく騒ぐ。それは社会現象とされ、逮捕者が出るまでに発展し、その対策のために2019年、渋谷区が計上した予算は1億円を超えた。徐々にその勢力は増し、「渋谷ハロウィン」と呼ばれる、一種の社会現象になった。
 それを批判することは簡単であるが、この文化が一体なんなのか、その仕組みを、そこに集う若者の心情を掴むことはとても難しい。例えば、情報に溢れた現在のインターネット社会において、どこでも誰とでも繋がれる時代である一方でその人間関係が徐々に希薄になっていることに対する若者の反発運動だ、とかいろいろ説はある。が、本当のことは分からない。 
 一方で、これによって渋谷が「消費される街」になってしまったと感じる。
 一度、ふと立ち止まって「消費する/される」ということばについて考えると、それはよく目にするが、その意味を説明している文章はあまり見ない。その意味は曖昧で、曖昧故に使いやすいことばとして「消費されている」のだが、私はその意味を他者に追随すること、だと捉えている。例えば、「集客できるから」という理由でメディアに採用される芸能人だったり、「いま流行であるから」という理由で売れるモノ、であったり、その本質を見ずに、他者が良いと言っているモノやコトを鵜呑みにすることが消費される何かなのだと考えている。
 まさに「渋谷ハロウィン」がそうではないか。若者が集まる心情の核の部分はたしかに先述したなんらかの社会に対する反発運動だったかもしれない。しかし、全体を見ると全く違う。「みんなが行って楽しんでるから」これだけに過ぎない、だからこそ若者が集まる理由なんて無いに等しい。ただ、人が集まってどんちゃん騒いでる、そんな機会他にない、だから僕も、私も行こう、と。
 90年代の(あくまでもnoteなので知識は省くが)文化の中心地としての渋谷から、現在の渋谷への変遷の中で、最も街を変えたのは、自分を表現しようとする能動的な文化の在り方から、受動的な文化への変化なのではないだろうか。
 その過渡期が終わり、受動的な街へと変化したあげく、渋谷パルコは息を引き取ったように姿を消した。 

 そして、いま渋谷パルコは私たちの目の前にある。いまの渋谷に対して中指を立てるかのように、いや、いまを否定し、ただ過去を回帰させようとしているふうには見えない。過去を踏襲しながら、現在の渋谷、またはそこにいる人々に寄り添った空間であり、象徴になろうとしている。
 これからの渋谷はどうなるのか。その行方が渋谷パルコには見えているのだろうか。ただ、私がいまわかるのは、渋谷の衰退を止め、新たな街へ変えようとする人が“ここ”には多く存在する、という事実だけであり、この文章はそれに対する祈りでもある。

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