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インターネットにおけるメッセージ媒体(マーシャル・マクルーハン)

「メディアはメッセージである」

これは1900年代中期に活躍した文学者マクルーハンの名言である。

Pドラッカーを初め、日本では竹村健一など多くのマクルーハン研究者を輩出したメディア論の第一人者である。

2016年において1900年代の理論が改めて注目されている理由がある。

彼の言う「メディア」は単なるマスコミではなく、人間同士のコミュニケーションに立つ媒体と考えられる。

そしてその媒体自体がメッセージであるとの主張があり、この理論がいま以て斬新である。

コミュニケーション手段においては「テレビ」「ラジオ」「雑誌」「新聞」「手紙」など古来からの媒体がある。

そして「メール」や「SNS」等に見る新たな手段が存在する。

彼の理論では、メッセージの中身であるコンテンツは重要なメッセージであるが、これら媒体自体もメッセージを持つと考える。

これは媒体はすなわち人間の五感の拡張であるとの考えに起因する。

例えば自動車は足の延長。眼鏡は目の延長。衣服は皮膚の延長であるという具合である。

またテレビが視覚の代わりをするなら、ラジオは聴覚の延長であり、WEBは神経系や脳の延長として考えられる。

さらに分化するのであれば、自身の文字を伝える手紙が手の延長物の造形であるなら、LINEのスタ爆は視覚野の延長線上に位置する。

葬式の際に、「お悔やみ申し上げます」という弔電を電報で送るか、それともLINEで送るか,全く意味が異なるものになってしまうのである。

すなわちコンテンツの伝えり方はメディア=媒体によって、大きく意味を変える。

このようにコミュニケーションは、その手段が何であるかが重要な意味となりうる。

だからその手段を間違うと、コミュニケーションとして成立しない。

ネットととリアルの関係性

弔電をLINEでは送らないとしても、これが実際にネットとリアルの齟齬として少なからず発生していることは確かである。

2010年以降、急速に広がったスマホ文化がそれに拍車をかけているのではないか。

新たなスマホ文化に対して、情報の上流下流ともその使い方が未熟である。

媒体ごとの特性を把握せずに節度無しに情報を流す上流。

そして新たな媒体での受け止め方の未熟な下流。

これはスパムメルマガをガンガン流すEC業者やリアルの問題の上げ足をとり祭り(炎上騒ぎ)を煽る受け手双方の問題がるのではないだろうか。

そしてこの問題はすでにネットの存在する以前の1900年代にマクルーハンが危惧していることである。

マクルーハン著書「グーテンベルクの銀河」に書かれているが、過去に新たなメディアであるグーテンベルクの活版印刷が確立したときも同じことが起きた。

印刷革命により、文字が大量生産されあらゆる印刷物がこの活版印刷に変わるだろうと目されていた。

しかしイスラム文化圏に対して、印刷物のコーランは全く売れなかった。

彼らは伝統的な写経しか認めなかったからである。

活版印刷により、全ての産業が変化したわけでは無いし、従来の写経文化が重宝されたシーンも多くみられた。

これは文字というコンテンツが問題でなく、コンテンツを伝えるべき印刷物自体がメッセージであったからだ。

コーランは人の手によって書かれていたものだったからこそ価値があったわけである。

今後、インターネット文化はあらゆるシーンで急拡大するはずである。

しかし旧来型メディアはそれぞれの意味合いがあり、全てが電子書籍化するわけでは無く依然として紙文化が残存するシーンがあり得る。

今後もその流動的なバランスの中で、メディアは移り変わっていくのであろう。

しかしそのメディアの伝えられる限界も考慮しなければいけない。

これはおそらく佐渡島庸平氏の言うインターネットでの親近感をどのように捜索していくのかという今まさに起こっている問題につながるのだ。




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