安田短歌と〈私性〉―恋人を喪った安田龍彦とは誰なのか

 以前、twitterのハッシュタグ「#恋人を喪った安田短歌」から派生した同人誌、『安田龍彦は喪われた恋人の夢を見るか?』にこのような文章を寄稿しました。思えばこれは、安田短歌というムーブメントに乗っかる形で、僕が自分自身のために整理した〈私性(わたくしせい)〉論であり、二次創作短歌論でもあります。
 安田短歌を知らない人でも、特に前半は普通の短歌論として読んでもらえるのではないか、そう思ったのでここに公開することにするものです。まあ、学部生のレポート程度のことはかけているのでは……。
 それでは、よろしければ。以下本文。





 恋人を喪った安田短歌(以下、安田短歌)を読むとき、我々はいったい何を読んでいるのだろうか。あるいは、安田短歌を読む際、我々の読者としての仕事はいったいどのようなことなのだろうか。
 安田短歌は、いうまでもなく、映画「シン・ゴジラ」の二次創作短歌である。だから、

 スクラップ・アンド・ビルドで建つ街に君はいなくて明日の風景(@Funatoku_ryota)
 矢口さんかなしいという感情はどんな形で折るべきですか(@asahisa22)

※twitterのアカウント名は簡単に変わる可能性があるため、作者名はIDで示すことにする

というように、原作映画に登場する要素を詠み込んだ歌も作られているが、一方で、そうでない歌も多く作られている。

 もう君に繋がらないと分かってる11桁を消せないでいる(@mapiction)
 墓前にて使い慣れないライターが幾度幾度も吹き消えていく(@M_gracile)

 このような歌は、「シン・ゴジラ」二次創作の安田短歌という縛りではなく、一般短歌として発表され、読まれていてもよさそうなものだ。それを安田短歌として読むとき、読者は何をしているのだろう。
 考えていくと、どうやら、安田短歌を読む際に読者がしている仕事は、一般短歌を読むときとはもちろん、他の二次創作短歌を読むときとも異なっているようなのだ。その詳細を明らかにすることが、本稿の目的である。
 だが、安田短歌の特性を読者に理解してもらうためには、まず、短歌の〈私性〉について、それから他の二次創作短歌における読者の仕事について、語っておかなければならない。しばしの間、安田短歌についての直接的な言及ではなく、安田短歌を論じるための準備が続くが、ご容赦のうえ、付き合っていただきたい。

 短歌は〈私性〉の文学である。こう主張したのは岡井隆だった。孫引きになってしまうのだが、岡井は『現代短歌入門』 の中で次のように述べる。

 短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の―そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(それが即作者である場合もそうでない場合もあることは、前に注記しましたが)を予想することなくしては、この定型短詩は、表現として自立できないのです。
( 岡井隆『現代短歌入門』1969大和書房。ただし、引用は大辻隆弘『近代短歌の範型』2015六花書林による)

 引用部の一文目は、短歌の〈私性〉を語るとき避けては通れないほどよく知られた(そしてその表現だけが文脈を離れてひとりあるきしがちでもある)一節である。
 岡井の言う〈私性〉について、短歌というテクストにおける「私」の階層性から整理したのが大辻󠄀隆弘だ。『近代短歌の範型』 で大辻󠄀は、先の岡井の言を引用したうえで、短歌における「私」を次の三つの階層に整理した。

 レベル①「私」…一首の背後に感じられる「私」(=「視点の定点」「作中主体」)
 レベル②「私」…連作・歌集の背後に感じられる「私」(=「私像」)
 レベル③「私」…現実の生を生きる生身の「私」(=「作者」)
(前出『近代短歌の範型』)

 くわしく説明しておこう。以下、大辻󠄀の用語にしたがって、このみっつの「私」を順に「私①」「私②」「私③」と呼ぶ。
 短歌は通常、ある人物の一人称の発話と捉えられる。小説でいえば、かぎ括弧でくくられた台詞が切り取られたようなものだ。この発話(=短歌のテクストそのもの)で描写されている「私」、および、そこから類推されるテクストの発話者(語り手)の視点(彼/彼女が何をどう見て語っているのか)が「私①」だ。
 同じ語り手が発話した複数の短歌テクストが集まると、連作や歌集という単位になる。一首という単位では読み取れる「私」に〝ぶれ〟が生じるだろうが、何首もの短歌を続けて読むとき、その背後にいる「私」の像は次第にくっきりと浮かび上がってくるだろう。この「私像」が「私②」である。
 そして「私③」とは、作品内部の世界とは別の位置で、実際にそのテクストを書いた存在、すなわち作者自身のことだ。
 短歌を読むということは、このみっつの階層の「私」を様々な形で(それは作品の特性や読者の〝癖〟によって異なる)読むことなのだと、大辻󠄀は主張する。それが岡井のいう〈私性〉の意味なのだと。
 多くの短歌において、この指摘は正しいだろう。ただし、注意しておかなければならないことがふたつある。
 ひとつは、決して「すべての」短歌が〈私性〉の枠組みから読まれるわけではないということ。

 手詰まりのチェス放置してベッドへと雪崩れる僧正(ビショップ)と騎士(ナイト)のように(松野志保)
(松野志保『Too Young To Die』2007風媒社。ただし、引用は山田航『桜前線開架宣言』2015左右社による)


 この短歌は登場する二人のうち片方の一人称の発話として読むこともできるが、三人称の記述として読むことも可能だろう。また、

 赤青黄緑橙茶紫桃黒柳徹子の部屋着(木下龍也)
(木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』2016書肆侃侃房)

という歌の背後に特定の「私」を見出そうとする試みに、何らかの意味があるとは思いがたい。
 もうひとつは、現代において、〈私性〉という用語が必ずしも岡井や大辻󠄀の言ったような意味では理解されていないということだ。先に挙げたみっつの「私」をすべて同一の存在として短歌を読む(大辻󠄀の記述を借りれば「私①=私②=私③」)という枠組み、あるいはそう読まれることを想定して作歌するという態度(岡井も注意を喚起しているように、それは短歌を読む枠組みのうちのひとつでしかないのだが)のことが〈私性〉と呼ばれることも、実際には多い。これは簡単に言えば、短歌で表現されていることは作者が実際に体験したこと、あるいは思ったことだと捉える読み方のことだ。
 本稿では、岡井・大辻󠄀の言う〈私性〉と区別するために、この枠組みのことを〈随筆性〉と呼ぶことにする。
 短歌の内容が見るからに非現実的(そう、たとえば笹公人の「すさまじき腋臭の少女あらわれて方位磁石も狂いはじめる」(笹公人『念力家族』2015朝日文庫) のような)でない限り、〈随筆性〉の枠組みで短歌を読む人は多い。穂村弘は『はじめての短歌』 の中で、

 雨だから迎えに来てって言ったのに傘も差さず裸足で来やがって(盛田志保子)
(穂村弘『はじめての短歌』2016河出文庫)

という歌を紹介しているのだが、この歌について語りながら、穂村は次のように述べる。

 作者はこのときに十歳ぐらいの女の子だったけど、会ったときに「あれ、迎えに来たの誰?」って聞いたの、知りたかったから。

 現代でもっとも人気のある歌人のひとりである穂村も、当然のように「傘も差さず裸足で来」た人物が実際にいたことを前提としてこの歌を読んでいる。このように、〈随筆性〉の枠組みを採用して短歌を読んでいる読み手は多い。

 では、二次創作短歌を読む際に、〈私性〉はどのように機能しているだろうか。
 二次創作の短歌には大きくわけてふたつの方向性がある。ひとつは作品のある場面を切り取って57577で表現しなおす、いわば「短歌化」という方向性。もうひとつは、作中のキャラクターの一人称として創作するという方向性。安田短歌は後者のタイプだから、以下、二次創作短歌と言った場合、こちらを表すものとする。
 二次創作短歌では、当然ながら、「私①」あるいは「私②」と「私③」が一致することはありえない。「私①/②」であるキャラクターは虚構である作品内部に住んでいて、現実世界を生きる作者の「私③」と同一人物ではありえないということは、あらためて指摘するまでもないことだ。したがって、二次創作短歌では〈随筆性〉が成立することはない
 ただし、二次創作短歌を「キャラクターの発話を短歌で表したもの」とすれば〈随筆性〉は成り立たないが、「キャラクターが詠んだ短歌」という設定を採用すれば、いわば〈虚構の随筆性〉とでも呼ぶべき枠組みが成立することになるだろう。わざわざ原作のキャラに彼/彼女から見てフィクションの歌を詠ませては二次創作の意味がないからだ。
 二次創作短歌では、「私③」の階層においては〈私性〉は機能しないが、作品背後にキャラクターという「私」が存在する以上、「私①」や「私②」のレベルでは〈私性〉は機能する。ただし、一般短歌とは異なる形で。
 一般短歌では、読者は、短歌と「私」のうち、短歌のほうに先に出会うことになる。「私」は短歌テクストの背後に隠れている存在であって、読者が「私」を読むとき、それは短歌テクストを経由して間接的に行われる(【短歌→「私」】という構造)。
 対して二次創作短歌では、読者のきっとほとんどすべてが原作のキャラクターを知ったうえで短歌を読むわけだから、一般短歌とは逆に、本来ならば短歌テクストの背後に隠れているはずの「私」から逆向きにさかのぼって短歌を読むことになる(【短歌←「私」】という構造)。
 短歌に限らず、二次創作作品を読むときに読者が気にかけるのは、キャラクターが自分の描いたキャラクター像を壊さずに動いているかどうかということだろう。二次創作でのキャラのふるまいが原作のキャラクター像を大きく逸脱している現象は「キャラ崩壊」と呼ばれ、それを好まない人もいる。漫画なら見た目の造形、小説なら口調で、もとのキャラの原型をとどめることができるものの、短歌という形式においてはそれも難しい。したがって、二次創作短歌での「キャラ崩壊」は基本的には許されないと考えてよさそうだ。
 すると、二次創作短歌では、読者は、自分の思い描くキャラクター像をもったうえで、それに照らしあわせてキャラがいかにも言いそうなことが短歌になっていることを楽しむ、という読み方をしていることになる。
 これにはふたつの利点があるだろう。ひとつは、テクストを読んでゼロから背後にいる「私」を読み取っていかなければならない一般短歌に比べて解釈が容易だということ。そして、解釈は容易だが、原作のキャラクターという強固な「私」を通して読むことで、作品世界に向けて想像力を広げていくことが可能だということだ。
 読者に利点を与えられるということは、これは作者の側にとっても利点だが、逆に厳しい制約となる面もある。原作のキャラを逸脱できないということはそのまま、表現できることが少なくなるということも意味しているからだ。
 このやっかいな制約をうまく乗り越えたのが、『壁外拾得物・分類番号3102-11-004』(以下、「壁外拾得物」)だった。この本は、漫画『進撃の巨人』の二次創作短歌である「進撃短歌」の同人誌だ(BL短歌同人誌『共有結晶』の別冊として2013年に発売された。現在、ウェブ版が入手可能)。原作で主人公たちが所属する「調査兵団」にかつて所属していた兵士(これは「安田の恋人」同様にオリジナルキャラ)の遺品である手帳に書き連ねられた短歌という設定である。
 通常、二次創作短歌にオリジナルキャラを登場させることには賛否あるものだが、亡くなった名もなき兵士の遺品、というこの設定は、原作漫画の世界観によくマッチする。したがって、読者はこの〝手帳〟の存在を違和感なく受け止めることができる。そして、原作には登場しない人物であるがゆえに、原作におけるキャラクター像に縛られることはない。
 一般短歌と同じように【短歌→「私」】という構造を残しつつ(言い換えれば〈虚構の随筆性〉を成立させて)、原作の世界観の広がりという二次創作短歌の利点を得ることに成功したというわけだ。

 いよいよ安田短歌の話に移ろう。
 安田短歌は原作である「シン・ゴジラ」の登場人物である安田龍彦の発話という設定だから、この点では、「外壁拾得物」よりはふつうの二次創作短歌に近いといえるだろう。
 ところが、肝心の安田龍彦のキャラクター性は、それほど強固なものではないのである。
 もちろん、映画「シン・ゴジラ」において、安田龍彦という人物が印象的なキャラクターであることは間違いない。しかし、「シン・ゴジラ」という作品では、徹底的に登場人物が仕事をしている場面ばかりが描かれ、キャラクターのプライベートが描かれない。巨災対という組織の中で任務に従事する「公」の安田龍彦の姿の一端を捉えることはできても、彼のプライベートがうかがえる場面は、それこそ安田短歌が生まれる発端となった「安田龍彦はゴジラ襲来によって恋人を喪ったのではないか」という〝妄想〟を生んだ、例のカットぐらいなのではなかろうか(キャラクターの私的側面の描写が少ないからこそあのカットの安田のうるんだ瞳や、ラスト近くの尾頭ヒロミの笑顔が印象的になる)。
 短歌の「私」を引き受けるキャラクターとしての安田龍彦はたしかに存在するのだが、その安田龍彦像は、実は非常に限られた要素から各人が想像するしかない。
 加えて、喪われたという恋人の存在も、ひとりのオリジナルキャラにすぎない。また、安田タンカラーと呼称される安田短歌の詠み手たちの間にも、何か共通の「安田の恋人像」があるわけではない。
 単に作品名が冠されただけの二次創作短歌に比べて、「恋人を喪った安田短歌」というくくりは、制約が厳しいように見える。しかし実際は、安田龍彦のプライベートな人物像が原作では描かれていないこと、喪われた恋人(むろんこれは原作の展開とは非常にマッチする)というオリジナルキャラの導入という二点によって、安田短歌はむしろ広い表現の可能性を獲得したのだ。
 また、解釈の容易性という観点からも、「恋人を喪った」という強い枠組みがあらかじめ与えられているので、その枠組みにしたがって読めば、「シン・ゴジラ」の世界で愛する人を喪った安田龍彦という存在の目を通して想像力を働かせることができる。
 ためしに、一般短歌を何首か引用してみよう。 

 ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は(穂村弘)
(穂村弘『シンジケート』2006沖積舎)

 この街を出ていく人の行く手にも静かに雨が降るとの予報(枡野浩一)
(枡野浩一『歌―ロングロングショートソングロング』2012雷鳥社)

 (シンシアリー・ユアーズ)きみがどの夜もとびきりによく眠れますように(吉田隼人)
(吉田隼人『忘却のための試論』2015書肆侃侃房)

 これらの歌をただ提示されたとき、我々はいろいろなことを考えるだろう。「おれ」の涙のわけはなんだろうかとか、「この街」とはどこなんだろう、なぜ「出ていく」のだろうとか、語り手と「きみ」はどんな関係なんだろうかとか。
 けれどもひとたび「#恋人を喪った安田短歌」というハッシュタグがつけられてしまうと、その解釈はすぐさま、「恋人を喪った安田」という存在のまなざすものへと収束していく。そして読者は、彼の喪失感に触れることになるのだ。
 このように、安田短歌でも他の二次創作短歌同様【短歌←「私」】という構造があるのだが、一方で、前述のように安田龍彦という「私」は揺れが大きいので、短歌テクストを通して背後の安田龍彦像を類推するという【短歌→「私」】という構造も持っている。
 先に紹介した「壁外拾得物」は、ひとりの兵士が遺した短歌という設定だが、実は作者はひとりではない。複数の詠み手による短歌から、ひとりの「私」を創作しようという試みだ。
 これはちょうど、安田短歌と対照的である。安田短歌においては、同じ作者が詠んだ短歌だからといって、「同じ安田龍彦」が描かれているわけではない。「恋人を喪った安田龍彦」としてありうべき様々な可能性の顕現として描かれた、複数のパラレルワールドを生きる安田龍彦がそこにはあらわれる。ある安田は恋人の死をいつまでも引きずるが、別の安田は恋人の死を乗り越える。ある安田が持っている恋人との思い出を、別の安田は共有しない。
 恋人を喪った安田龍彦は、一首の安田短歌、あるいはひとつの連作が生み出されるたびに新しく生まれる存在であって、彼が恋人の喪失をどのようにとらえ、それとどのように向き合っているのかは、読者がその都度読み取っていくしかない。
 つまり安田短歌においては、読者はまず短歌テクストを通じて背後の安田龍彦がどのような「私」なのかを読み取り、続いてその安田像から遡及して短歌テクストを読み直す、という二重の読み(【短歌←→「私」】の構造)をすることになるのだ。
 この読みの二重性こそ、〈私性〉という観点から見た安田短歌の特性である。
 繰り返しになるが、このねじれた特性は、「恋人を喪った安田」という設定の限定性と、主体である安田龍彦のプライベートな人物像がはっきりとは確定しないという原作の特徴によるものだ。

 安田タンカラーたちによって生み出され、読者に提供される、さまざまな姿の恋人を喪った安田龍彦。どこかでありえたかもしれないいくつもの平行世界で、今日もあるひとりの安田龍彦が喪った恋人に思いを馳せていることだろう。読者として、我々はそんな安田龍彦の胸の内をのぞき込む。
 最後に、拙作を一首引用して筆をおくことにしよう。他の世界線で恋人を喪った、自分とは別の安田龍彦たちの存在を認識してしまったとある安田の歌である。

 君の死の報せが入る この僕もやはり喪う運命なのか(@Ebisu_PaPa58)


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