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2022/11/30

場所:吉祥寺エリア
機材:SONY-RX100
天候:曇り(たびたび小雨)
日中気温:18~19℃
日中湿度:70~80%
路面:やや濡れ
周辺照度:30,000~35,000lux
人出:平常


西友のうえのところにドンキが出来てた。
あまり人手がなかったけど、ティッシュ配りのひとが頑張っていた。
雨上がりに少し日差しがさしてきた。
きょうは大安だったらしい。宝くじ売り場は盛況。
ゲーセンになぞのおみくじマシーン。
ハモニカ横丁にて鳩。


平日日中の吉祥寺は若者の街というよりは、中高年やお年寄りたちの街である。働き盛りや学生はそれぞれ仕事や学業があるのだろう。通りにいるのは、遊びか散歩かの老人、吉祥寺で働く作業員たちが目立つ。

街の活気というのもひっそりとしていて、話し声も少ない。
とくにこんな曇り空の日には、おしゃれなスポットのなりはひっそりとして、少し土茶けた吉祥寺だ。
休日になるとティーンエイジャーが集まって、文字通り騒がしい街も、きょうは静やかである。

とおりがけ、サンロードの中にある宝くじ売り場では「今日は大安!今日は大安!」と録音された若い女性の高い声がしきりに周囲に響いていて、周りをウロウロ見渡すと、何人かが売り場に集まっているのがわかる。
クタッとした服を着て背の少し曲がった老婆。仕事の途中だかについでのふうで数枚のクジを買う人。
宝くじというのはどうして買うのだろう。1/1000万だとか1/100万の確率で当たるクジを買うのは、楽しそうだけど、、、でも自分がいざ買おうかって思うと気がひける。
クジを買うことが楽しいんだから、当たらなくたっていいなんて言うかもしれないし、それはそのとおりなのだろうけど。でも、ちょっとそれは「当たらないこと」に予防線を張り過ぎじゃないかな、なんておもったりもする。
人の楽しみにシニカルになるのはダサいって思うけど、でも、そういう「手に入らない事を楽しむ」文化っていうのか、そういう遊びの種類にあんまり馴染みがないのか、そういうのには懐疑的になってしまう。

射幸心を煽られることを楽しむ、なんていい方でもいいのかもしれないけど。煽らたことを自分の人生の中にポジティブに組み込んで、変に斜に構えないで、そうやって生きていくことが自分とは縁遠い。思えば、ゲームのガチャは嫌いだし、カードゲームはパックを買うより狙ったカード単品を買いたいし、福袋はただの残品処理だとしか考えてこなかった。

そういうところに人間性が出てくるんだろうね。
保守的というか、守るのが好きというか、そういう人間なのよね。

でまぁ、宝くじというと、こういう論文があるので紹介。

「希望の消費から希望の創造へ __ナイジェリア・ラゴス州における数字宝くじをめぐる人/数字のインタラクションに着目して」
荒木 健哉
発行年:2018
URL:https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjcanth/83/1/83_095/_pdf/-char/ja

本稿はナイジェリアのラゴス州において、数字宝くじを購入する人々が宝くじの購入(消費)を余暇活動や娯楽ではなく、他の生計活動とは異なる独自の労働や仕事とみなす論理を、宝くじの当せん番号の予想をめぐる実践に着目して明らかにすることを目的とする。ギャンブルを対象とした人類学的研究では、不確実性の高い状況下において人々は生活のあらゆる側面を経済活動の領域に位置づけることが指摘されてきた。ナイジェリアにおいても宝くじを購入する人々は、生計多様化戦略の1つに宝くじの購入を位置づけている。しかし、その他の生計活動と宝くじでは、前者における不確実性が社会関係に起因しがちなのに対し、後者は最小限の人為性しか介入せず、ある種の公正さを伴う純粋なチャンスのゲームであることが異なっていた。他方で興味ぶかいことに、宝くじの購入者たちは、宝くじの幸運は受動的に降りかかってくるものではなく、一定の技術により主体的に獲得できるものだとみなしていた。本稿では、この予想をめぐる実践を検討し、彼らが予想の技術を何らかの認識論的な枠組みにおいて解釈せず、ただ<存在する>とみなすことを通じて希望を創造/贈与することを論じる。そこから宝くじの消費実践を生計実践=仕事に埋め込む論理を探る。

こまかくは原著を読んで下さいなのだけど、要するに「生計手段/労働」としての宝くじってのがあるのよって話です。
私達が行うような余暇としての宝くじとは違う、仕事としての宝くじ。日本だと、例えばパチンコとかスロットとかで生計を立てるなんて人はいて、そういうのはパチ"プロ"とかっていうじゃない。それと同じで、ナイジェリアとかいでは"クジプロ"(って言い方は本文では出てこないけど)がいるんだって。
彼らにとってそれは投資であり、公平なルールに則ったゲームなのだ。
彼らはマシンが選ぶランダムな数字の中に法則性を見つけ出す(それがじっさいにあるかはともかく)。「ロトは統計なのだ」というクジの小売商の発言にもあるように、ここにおいて宝くじは単なる運試しで終わらないものとなっている。
吉祥寺の宝くじ売り場にはそんなふうに真剣に宝くじを買っている人はいないだろうが、ところが違えばそういう人もいるのだ。

ナイジェリアの宝くじ売り場では、売り場に張り付いて数字を「読む」ことに卓越したひとがいたり、秘密のノートに書かれた計算式で数字をピタリと当てる(とおもわれている)人がいる。そんな予想屋の後ろにピタッと付いて数字を聞き出そうとする人がいる。
そんな光景は日本では見たことがない…といえばそうだが、まったく身近でないとはいえないだろう。というのも、彼らがやっていることは、私達が競馬場にただならぬ雰囲気で佇む上等なスーツの老人が手に持った新聞のどこに赤丸が書かれているかを覗き込みたくなるのと、要は同じだからだ(そんな老人をみつけたことは実はないのだけども)。

この論文の要諦は、「予想技術を持つ人と持たない人の間では、互いの差異を積極的に認めることで利益――小売商にとっては宝くじの売上、客にとっては宝くじを買うことで生じる希望――が産出」されること。ないし、そこで産出される希望(生活を豊かにするチャンス)を交換しあうコミュニケーション世界の記述である。
私はこの論文を読んで、「貯蓄したほうが良くない?」とか「大企業(宝くじの胴元)に搾取される環境にささやかな希望をもつことってしんどいな」とありきたりな新自由主義嫌いの左翼的精神みたいな感想が思いついたが(同じようなことを現地のナイジェリアの人のいくらかも思っているようではあるが)、そんな感想とは裏腹に、クジを楽しみ、そこに生活の希望を見つける人たちがいて、彼らはそれを搾取ではなく勝ち目のある公平なゲームとして挑みかかっているのである。

こういう話を読むと、なんだか、性格の差がよく出ちゃうなって思うよね。

そういう話でした。


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