母のクロックスのストラップは、いつも片方だけ上がっている。
妹から13時45分、とLINEが来た。
10月31日。
私は部室の窓を開けた。うんざりするほどよく晴れた空を見る。
母は、あと10日程で58歳になるはずだった。
大学3年の春、
通学時間が長く、深夜に家に到着することから疲労とストレスが溜まっていた。
通学時間のせいでバイトもできないのも不満だった。
それを理由に、家を出た。7月の事だった。
一人暮らしの心配する母親と口論になり、「お母さんの治療費の足しになればいいなと思っとるのに、なんでそんなことばかり言うの」と言うと、母は泣いた。
でも、本当は、朝の短い時間しか会わない母からの毎日の小言から「私と母は距離が近すぎるのかもしれない」と思ったのが本当の理由だったからだったかもしれない。
母は、私が生まれる前に交通事故に合い、身体障がい者として今の実家に嫁いできた。
右足が思うように動かないのと、事故の後遺症でずっと体のどこかは調子が悪かった。
それでも母は真っ昼間の砂湯に行ったり、私の男友達に『あきに襲われんように股間抑えときなよ!』と言ったり、SPを押しのけ加藤勝信さんにリール転がしを教えたりするような、豪快で、愉快な人だった。
私が小学校を卒業する時、一人一つずつ担任の先生からの手紙をもらった。
思い出話や、私のことを書いてあるのかと思いわくわくしながら内容を見てみると、『貴方のお母さんのようになりなさい。』というようなものだった。
すごく拍子抜けした。
内容は最後まで一貫して、母に基いてのものだった。
小学生後半から開花した私は、中学生から活動的になる。
陸上をしていた母は、きっと運動をして欲しかったと思うが私は吹奏楽部に入り、
中学2年の時に地域活動やプロジェクトにはまり、送り迎えなどで母を振り回した。
今思えば母は心配が故の小言を言うが、活動についての小言や文句はひとつも言わなかった。
しかし大学選びだけは、志望校に首を縦に振らなかった。
いや、嘘だ。最初はいいと言ってくれていたが、いいと言えない理由が出来た。
母の身体にガンが見つかった。
ステージ2のガンだった。
母にガンが見つかったと聞いた時、あまり驚きはしなかった。
痛み止めなどの薬漬けの身体に、そういう不調が出てきても不思議ではなかったからだ。
半年程、私は希望の大学進学の説得を試みた。
土下座までしたがやはり母は許してくれず、結局私は今の大学に通うことにした。
母は、治療費のこともありそもそも大学には通わせないつもりみたいだった。
それでも大学に送り出してくれた母の優しさを、その時私は知らずにいた。
大学1年の時、帰りが遅くなったりすることから母との喧嘩が多くなり、「私は家族の中でも不必要な存在なんだ」と感じていた。
しかも人間関係のトラブルもいくつも重なり、「死にたいな」とぼんやり思うようになった。
死にたいな、という状態から救ってくれたのは、今所属している吹奏楽部の人達だ。
部活の人達は、皆暖かかった。
部活の話は時々話していたし、母は演奏会も楽しみにしていた。
しかし、部活に注力すれば注力するほど、極端に家族の時間が減った。
母と写った写真は思い出す限り、成人式の時のみだ。
大学3年の6月、私の誕生日の2日後に母は救急車に運ばれた。
ガンの再発が原因だ。
もうその時は、末期のガンだった。
そこから転がり落ちるように、さらに調子が悪くなった。
情緒もよく不安定になって、あんなに人が好きだった母は誰とも会わなくなった。
よく過呼吸によくなっていて、その時も背中をさすった。
細い背中で「亜季は好きなところに行かれなよ」と泣いた。
これからの、私の将来のことを言っていたと思う。
その状態でそんなことは今は気にしなくていいよ、と返した時に母を見ながら私も少し泣いた。
最期の極限状態でも家は寒いから布団を出しなさいよ、などと言うような、
自分のことより私たちのことを優先するような人だった。
それなのに、私は友達のことばかり優先して家族の時間をひとつも大切にできてなかった。
母の日や誕生日に何か買って帰るんじゃなくて、もっとできたことがあったのに。
こんなじゃなにも後悔の埋め合わせは出来ないが、せめて、出雲大社に行こうという提案を、『そんな身体じゃ無理だろう』と言ってしまったのを、『行こうね』と言ってあげたかった。
小学生の時に、母のようになりなさいというようなことを言われたな、とどこかでずっと覚えていた。遺影選びの最中に、その手紙を引っ張りだした。
「お母さんをよく見て、あなたらしさを発揮しなさい。」
PTA会長をしていた時に夜な夜な挨拶文を書いていた母の背中は、
高校の時生徒会長をした私と重なった。
豪快な事を言ってどっとその場を沸かすユーモアさは、しっかり受け継いでいるつもりだ。
あの私もいつの日か、母が自然と魅力的に思われる、その人柄に憧れていた。
潜在的にずっと、私もそうなりたいと思っていた。
私の母は、誰よりも素敵な女性だった。
またいつか会えた時には、必ず出雲大社に一緒に行きたい。
その時は右足はきっと動いているから、クロックスのストラップはあげたままでよろしい。
私はもう間違えて母のクロックスを履いて、違和感を感じなくて、もうよろしい。
2022.11.1
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