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血の繋がらない祖父と孫のおはなし

わたしには、生まれながらにして祖父はひとりしかいなかった。

会ったことがない母方の祖父は、母が高校生のときに亡くなったらしい。

でも、それを一度も寂しいと思ったことはなかった。

血のつながりよりももっと大切なモノが、人と人をつなぐ上で存在することを教えてくれた「もうひとりのおじいちゃん」がいたから。




わたしがおじいちゃんのように慕っていたその人は、血のつながりどころか、戸籍上の家族でもなかった。でも、わたしが生まれる前からわたしのことを大切に想ってくれていて、当たり前のように側にいてくれた人だった。

わたしはその人のことを一度だけ「おじいちゃん」と呼んだことがあった、らしい。幼かったわたしはおばあちゃんと一緒に遊んでくれる彼のことを祖父だと認識したのだろう。でも周りの大人たちがそれを訂正した。それ以降は名前で呼んでいた。
でも、ここでだけは「おじいちゃん」と呼んでみることにする。28年ぶりの「おじいちゃん」。

なぜ、わたし本人が物心つく前のことを知っているかというと、そのエピソードを嬉しそうに何度も何度もおじいちゃんから聞かされていたからだ。

そりゃもうずっと。わたしがハタチ超えても「俺のこと『おじいちゃん』って呼んできてよぉ〜」って教えられた。ただの近所のおじちゃんじゃないんだぞってさ。

おじいちゃんは血の繋がらない、いわばただの知り合いの小娘であるわたしのことを「孫」同然に、いや「本当の孫」として可愛がってくれた。

「祖父と孫」「家族」「親戚」この世のどの言葉を当てはめても説明がつかないような、何にも変えられない、そんな関係性だった。

血のつながりや戸籍なんて考えたこともなかったわたしに、生き様と死に様で大切なことのすべてを教えてくれた、そんな人だった。


お別れの3週間前にわたしは結婚式を挙げた。

癌になってから、随分と会えていなかったおじいちゃん。花嫁姿を見せて少しでも元気を出してもらいたい、生きててよかったと思ってもらいたい、喜んでもらいたい、そう思っていたけれど、病が進行してしまい、当日は来られなくなった。

「ごめん、結婚式行けなくなった。写真見せてよ。」
いま思えば、なんとか明るい声で伝えてくれたんだと思う。
電話越しに泣いてしまったわたしに、おじいちゃんは、
「泣きたいのはこっちだよぉ〜」
と、さらに戯けた声を出した。

わたしも気持ちを切り替えて、あとでおじいちゃんに見せるために精一杯の笑顔で写真を残そうと、当日は顔が痛くなるまで笑っていた。でもおじいちゃんが座るはずだった空席が目に入るたびに鼻の頭がツンとなった。

結局、結婚式のアルバムを渡すことはできなかった。

それでも花嫁姿のわたしと「写真が撮りたい」と言ってくれて、おじいちゃんの家の近くのスタジオアリスで写真を撮った。

3ヶ月前に会ったときよりもさらにシルエットは小さくなり、自分では歩くことが難しくなっていて、車椅子で介助されながらの外出となった。

はじめはわたしの父や母、妹と全員で写真を撮り、最後にわたしとおばあちゃんと3人で写真を撮ることにした。

わたしの隣に座ったときに、小さな声で、
「やっと1番撮りたかった写真が撮れる」
とつぶやいた。

きっと撮影中も、移動中も、笑顔を見せていたけれど、身体中痛かったのだろう。苦しかっただろう。それでもどうしてもわたしとの思い出を残そうとしてくれた。

痩せ細った手で、わたしの手を握ってくれて「ありがとう」と言われたのが最後の会話。

もっともっとわたしも伝えたいことがあったし、もっともっと聞きたいことがあったのに。おじいちゃんの前では泣くまいとしていたこともあり、「わたしこそありがとう」としか返すことができなかった。

元気なうちにもっと会いに行けばよかった。病気が進行して「弱ってる姿を見せたくないから会いたくない」と言われたときも、電話でも手紙でもいくらでも手段があったのに…と、3年以上経ったいまでも後悔が消えない。

でも、周りの人に生前の彼の話を聞くと、わたしのことをほんとうに可愛がってくれていたことを再認識させられるばかりで。

自分の親戚の集まりで、わたしのことを堂々と「孫」と話して、「お前に孫はいないだろ」と茶化されても、「はるかは俺の初孫だ」と貫いていたらしい。

生まれてから会えなくなるまでの約25年間、毎年お年玉と誕生日プレゼントを渡してくれた。

小さい頃は毎日遊んでくれた。大きくなるにつれて、毎日は会わなくなって、年に数回しか会わなくなって、自分の話を詳細に伝えることもなくなってしまった。

もっと話をしておけばよかった。もっと気持ちを伝えておけばよかった。

お別れの前日、病院へお見舞いに行くと、昏睡状態寸前のおじいちゃんがベッドで寝ていて、おばあちゃんが大きな声で呼びかけても反応はなかった。

母も続いて話しかけた。わたしは、「明日も来るからね」と泣きながら声を掛けている母の後ろ姿を、病室の入口から眺めていた。

わたしは何を言えばいいのかわからず、向き合うのが怖くなって、そっと近づき、小さな声で名前を呼んだ。

するとおじいちゃんの目が開いて、口をぱくぱく動かした。
びっくりして目を見開くと、さらにはっきりと目が合った。

(おばあちゃんとママを頼む。)

そうわたしに伝えようとしているんだな、と直感でわかった。
うん、と頷くと目を閉じて眠ってしまったように見えた。

そして奇跡的に現像が間に合った、一緒に撮った写真を枕元に置き、「あとで見ておいてね」と言って病室を出た。


次におじいちゃんを見たのは、棺桶で眠っている姿だった。


わたしは、最後におじいちゃんから託された「おばあちゃんとママを頼む」という言葉を強く胸に刻んで、お通夜でも、告別式でも、悲しみを表に出すことはしなかった。

悲しむ人たちを見ながら、わたしは強くいよう、泣いてもおじいちゃんは喜んでくれない。そう言い聞かせて気丈に振る舞った。

あの日思い切り悲しんでいたら、最後のお別れでうんと泣けていたら、こんなに後悔することはなかったんだろうか。そして、こんなに胸の中に残り続けることもなかったんだろうか。

どうすることが正しかったかなんて、わからない。
どちらも正しくはないし、どちらも正しいのだと思う。

ただひとつ言えるのは、わたしがくよくよしていても、おじいちゃんは喜ばないということ。だからわたしは今日まで、そしてこれからも笑って、幸せになると決めて生きている。

恩返ししきれなかった分を後世に継なげていくことが、愛してもらったわたしができる最大の恩返しだと信じて。




この気持ちは絶対に薄れることはないだろう。
だからこそ、カタチに残すと決めた。何年かかっても、心をすり減らしたとしても、必ず完成させてみせる。

ずっとずっとずっと忘れない、ありがとうと大好きとさようならを込めて。

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