Happy Women's Map 北海道登別市 日本初アイヌ作家 知里 幸恵 女史 / First Ainu Writer, Ms. Yukie Chiri
「胸に燃ゆる烈火の焔に我身を焼き給え、泉とほとばる熱血の涙に我身を洗う。」
"Let my body be burned by the fierce flames that blaze within my heart, let my body be cleansed by the tears of passionate blood that well up from the spring."
知里 幸恵 女史
Ms. Yukie Chiri
1903 - 1922
北海道登別市登別本町2丁目 生誕
Born in Noboribetu-city, Hokkai-Do
知里幸恵女史は日本で初めてアイヌの物語『アイヌ神謡集』を社会に発表したアイヌ女性作家です。
Ms. Yukie Chiri is the author of "Ainu Kamuy Yukar" (Ainu Divine Songs), the first written collection of Ainu narratives by an Ainu person.
********
「亡国のアイヌ」
知里幸恵女史はアイヌの両親の父・高吉と母・ナミのもとに生まれます。
幸恵の父・高吉は南部藩侍の血を引き、登別温泉開発者・滝本金蔵夫妻に奉公して可愛がられ、読み書きそろばんを学んで山林や土地の払い下げを受け、知里牧場をアイヌの仲間と経営を始めます。日露戦争では旭川第七師団に入隊して203高地攻略の激戦を戦い抜いて金鵄勲章を受章するも、満足に働くことが出来ない状態になって戻ります。幸恵の母・ナミは姉のマツとともに、函館に出てイギリス人宣教師ジョン・バチラーによる愛隣学校でキリスト教や英語を学びながら伝道師の資格を得、日高の教会で伝道活動に従事していました。幸恵の母方の曽祖父・吉蔵は登別でアイヌと和人の両者に人望と財力を持ち、ジョン・バチラーの後援者として教会建設に協力するも、やがて和人に騙され全財産を奪われていました。ナミは高吉と結婚して農場の開拓に従事、重労働のできない体となった高吉の代わりに開墾・農作業など重労働を担って一家を支えます。知恵が生まれる少し前の1899年に明治政府は『北海道旧土人保護法』を制定。アイヌの土地の没収、収入源である漁業・狩猟の禁止、アイヌ固有の習慣風習の禁止、日本語使用の義務、日本風氏名への改名による戸籍への編入、など次々と実行に移され、アイヌ民族の生活・アイヌ伝統文化は消滅の危機に瀕していました。
「おお滅びゆくもの・・・、それは今の私たちの名前、何という悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。」
「アイヌ讃美歌 YESU EN OMAP」
知恵は室蘭の登別川沿いで生まれ、6歳のときに祖母・モナシノウクと暮らす母の姉・マツの養女として引き取られます。マツは日本聖公会で布教活動をしながら日曜学校を開いてアイヌ女性に裁縫・読書・ローマ字等を教えており、幸恵も子供たちと「アイヌ讃美歌」を歌ったりしてマツを手伝います。モナシノウクは吉兆を占うアイヌの巫女、そしてアイヌの口承叙事詩 “カムイユカラ" の謡い手。幸恵はモナシノウクから自然の神々の神話や英雄の伝説を学びます。幸恵は母方の叔父・太郎が政府と直接交渉して建設したキリスト教系アイヌ学校で学びます。太郎はアイヌ学校の教師に就任するも、アイヌ自治を目指す嘆願書を国会に提出しに行く過程で行方不明となっていました。幸恵は同化教育のもと必死で日本語を勉強して、アイヌ子女で初めて北海道旭川高等女学校を受験するも不合格。その後、14歳の時にアイヌ子女で初めて旭川区立女子職業学校に110人中4番で入学。唯一のアイヌ生徒として、同級生から差別やいじめに遭いながらも、片道6kmの道のりを歩いて通いながら勉学に励みます。「私に今まで友達といふものが真にあったであらうか」。やがて、知恵は心臓病を患い学校を休みがちになります。そんな中でも、日曜学校で出会ったアイヌの青年・村井曾太郎とアイヌの将来について語り合いながら結婚を約束します。
「時は絶えず流れる、世は限りなく進展していく。激しい競争原理に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からでも、いつかは、2人3人でも強いものが出てきたら、進みゆく世と歩を並べる日も、やがては来ましょう。」
「アイヌ叙事詩」
幸恵が15歳の時、言語学者の金田一京助が幸恵の祖母・モナシノウクを訪ねてきます。「世界五大叙事詩」と絶賛してモナシノウクの謡うユーカラを夜遅くまで熱心に聞き取って記録する金田一。幸恵は通訳を手伝いながら決意します。「私のため、同族であるアイヌ民族のため、アイヌ語を研究している金田一先生のため、学術のため、日本のため、世界万国のために私は書くのだ」。京助と手紙のやり取りをしながら、幸恵は "カムイユカラ" のローマ字筆記を始めます。心臓病が悪化する中、幸恵はノート3冊にわたって日本語に翻訳した「アイヌ伝説集」を金田一に送付します。出版を計画する金田一から上京の誘いを受けた幸恵は、反対する両親を説き伏せ、恋人・曾太郎の実家で仮祝言を挙げます。「必ず務めを果たして帰ってきます。チカップニの水辺に帰って来る渡り鳥のように」。東京・本郷の金田一宅に迎えられた幸恵は、東京で好奇の目にさらされながらも、教会に通ったり、産後鬱で伏せる京助の妻・静江と一緒に子供たちの世話をしたり、『女学世界』に寄稿したりしながら、京助と協力して翻訳・編集・推敲作業を続けます。ある日、幸恵はマツの便りで和人の女郎屋に売られた友人・やす子の死について知らされ激昂して金田一に諭されます。「だから、アイヌは、見るもの、目の前のものが、すべて呪わしい状態にあるのだよ」。上京して4か月余り、幸恵は心臓発作を起こしながらも『アイヌ神謡集』を完成させます。まさにその夜に、2度目の心臓発作を起こして19歳で死去します。
「試練!試練!!胸に燃ゆる烈火の焔に我身をやきたまえ、泉とほとばる熱血の涙に我身を洗う」。
-『銀のしずく : 知里幸恵遺稿』(知里幸恵 著 / 草風館1984年)
-『アイヌ神謡集』(知里幸恵 編 / 郷土研究者1976年)
-知里幸恵 銀のしずく記念館 Chiri Yukie Memorial Museum
-北海道新聞 Hokkaido News
Share Your Love and Happy Women's Story!
あなたを元気にする女性の逸話をお寄せください!
Share your story of a woman that inspires you!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?