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Happy Women's Map 千葉県君津市久留里 幻のエチオピア王妃 黒田 雅子 女史 / The Phantom Queen of Ethiopia, Ms. Masako Kuroda

-「明け行くエチオピア」(黒田雅子 著 / 国際経済研究所 1934)

「大和撫子の真価を世界に広めましょう。日本女性の海外勇躍の時勢を。」
``Spread the true value of Yamato Nadeshiko to the world. This is a time for Japanese women to venture abroad.'' 

黒田 雅子 女史
Ms. Masako Kurota
1912 - 1989
千葉県君津市久留里 生誕
Born in Kimitu-city, Tiba-ken

黒田 雅子 女史は幻のエチオピア王妃。エチオピア皇族リジ・アラヤ・アベバ王子と婚約するも、イタリアのエチオピア占領により破談に。
Ms. Masako Kuroda is the phantom queen of Ethiopia. She was engaged to Prince Rigi Alaya Ababa of the Ethiopian royal family, but the deal broke off due to Italy's occupation of Ethiopia.

「久留里藩主の娘」
 雅子は、旧久留里藩主・黒田広志子爵の次女として誕生。父親の事業の悪化により、久留里尋常高等小学校5年時に北海道の竹下浩(北海道拓殖鉄道創立委員長)の養女となって、山鼻尋常高等小学校、私立藤女学校、帯広大谷高等女学校に進学。海外経験のある養父の影響で、雅子は海外に興味を持つようになり英語学習に力を入れます。全国中等学校英語大会に唯一の女学生として参加を果たします。16歳で東京の両親のもとに呼び戻されると、親戚の松平浜子が創立した関東高等女学校を卒業します。「意義のある結婚をしたい」と日頃から言い続ける中、エチオピア王子の来日に伴って「神秘帝国」「ライオン帝国」エチオピアブームで日本中が沸き立ちます。

「ライオン帝国の王子」 
 ヨーロッパ植民地に囲まれ独立を脅かされていたエチオピアと日本は使節団の派遣を介して修好通商条約を締結。日本公使がエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世の戴冠式へ参列、外務大臣ヘルイ・ウォルデ・セラシエ(Heruy Wolde Selassie)率いるエチオピア使節団が来日します。天皇裕仁に謁見後、2か月に渡って日本に滞在します。欧米経由の野蛮で獰猛な黒人像とはほど遠い、教養高い使節団はじめ同行するリジ・アラヤ・アベバ青年王子の品の良い動静が雑誌・新聞の紙面で詳細に報道されます。ハイレ皇帝から贈られたライオン・キリンのいる上野動物園に人々が押し寄せ、大学ではアフリカ研究会が発足、エチオピア貿易を促進する民間団体が誕生します。早速、雅子は図書館でエチオピアの地理風俗について調べ始めます。

「日本人エチオピア妃の募集」
 ヘルイは帰国後に「光の場所 日本という国」を出版。「日本には製糸、製紙、機械、製造、飛行機製作、造船、兵器、新聞及び印刷等数え切れぬ程の大小工場がある。」「日本人は快活で勤勉で意志が強い。真面目で正直で皇室をあがめ老人や目上のひとを尊敬する。非常に向上心に富み、忍耐強く勇敢で、いったん緩急あれば義勇に奉じる念をだれでも持っている。」日本でも翻訳本「大日本」が刊行され話題になる中、アラヤ王子は新聞広告で日本人花嫁を募集します。「エチオピア皇帝の従弟が妃に日本人を希望」「淑やかな日本婦人をお妃にご所望。エチオピアの若き皇族」花嫁の条件として①美人で英会話ができること②年齢19歳から21歳までの2点。縁談がまとまり次第、支度金一切を送金の上で王子自ら花嫁をジブチまで出迎えること、皇帝から広大な土地を下賜され新居の設計中であること、結婚式は来年早々を希望する書簡が公開されます。雅子は頑迷に反対する両親を説き伏せ応募します。

「妃修行」
 「ひとずれしない素直な、まるで童話の中に出てくる王子のよう」「エホバの神に誓ってアラヤ殿下の純情には駆け引きが無い」身内の同意を得た申込者が20名に達し、中には女官でもよいと言うもの、血書を送りつけるものもあります。結婚仲立ち人で、汎アジア主義者・頭山満の顧問弁護士・角岡知良の訪問を受けた雅子は答えます。「海外雄飛へ先達をつけるべく、日本とエチオピア両国の契りとなり国際的に活躍し、両国の幸福のために尽くしたい。」エチオピア王妃として正式な決定が下されると、アラヤ王子の礼装姿の署名入り写真が雅子の許に届けられます。黒田家はアラヤ王子の再来日に備えて宮内省また外務省との打ち合わせを重ね、世田谷区の住居を引き払って芝白金に居を構えます。雅子は妃修業に邁進しながら、グラビア雑誌に登場したり、座談会に引っ張りだこになります。

「ワルワル事件」
 ところがなかなかアラヤ王子は来日せず、電報が途絶えます。そんな中、毎日新聞の夕刊一面トップ「黒田雅子嬢との縁談エチオピア側で解消 怪・某国の干渉の魔の手」で大騒ぎとなります。同紙朝刊では某国をイタリアと名指し、エチオピアを巡って錯綜するイタリア・フランス・イギリス参加国の利害関係を報じます。雅子は「取り消しが事実となってっも落胆はしません。日本女性の海外勇躍の時勢だということをはっきり日本女性に認識してもらっただけでも意義がある」と心境を述べます。すると一転して、解消劇ばかりか婚約そのものにまで非難の声が上がるようになります。イギリス人に嫁いだ恒子・ガントレット夫人は「一種の英雄的憧れ」、青鞜社員・神近市子は「あまりに軽率」。雅子は「御伽話のような国の王妃を夢見たのではない。国際的センセーショナルの犠牲となって今度の結婚話に敗れるのなら本望です。」まもなく、イタリアは「ワルワル事件」を起こしエチオピアへ派兵して占領。日本は満州の利権の代償にイタリアのエチオピアでの利権を認め、雅子はエチオピアの幻の王妃となります。

-「明け行くエチオピア」(黒田雅子 著 / 国際経済研究所 1934)
-『マスカルの花嫁―幻のエチオピア王子妃』(山田一廣、朝日新聞社 1998)

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