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Happy Women's Map 宮城県大崎市 日本初の女子体育学校の創立者 二階堂トクヨ女史 / The Founder of Japan's First Women's Colledge of Physical education, Ms. Tokuyo Nikaido 

-「二階堂トクヨ伝」(二階堂清寿・戸倉ハル・二階堂真寿 著 / 不昧堂書店1960年)


「女子体育は女子の手で。」
"Women's physical education by women"

二階堂  トクヨ 女史
Ms. Tokuyo Nikaido
1880 - 1941 
宮城県大崎市三本木町 生誕
Born in Ozaki-city, Miyagi-Ken

二階堂トクヨ女史は、日本初の女子体育専門学校の創立者です。男性と対等であり平等である「女性」のための教育に尽力。イギリスのクリケットとホッケー、チュニックを日本に持ち込みました。
Ms. Tokuyo Nikaido was the founder of Japan's first women's physical education specialized school. She dedicated herself to education for women, emphasizing equality with men. She introduced cricket, hockey, and tunics from England to Japan.
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「女性教師不要論」
 トクヨは鳴瀬川の清流を前に春は菜の花畑が大地を彩り、秋は黄金の稲穂が波打つ宮城県志田郡三本木に、もと仙台藩士の父・保治と母・きんのもとにトクヨは生まれます。二階堂家が明治維新に土地・家禄を没収され開墾をはじめてから10年余り過ぎた頃でした。運動嫌いで文学少女に成長したトクヨは、15歳で准教員検定に合格すると地元の三本木小学校で准教員となります。正教員の資格を目指す矢先に、休みが多い・能率が上がらないという理由で宮城県で女性教員廃止論が持ち上がります。そこでトクヨは福島の新聞「福島民報社」に手紙を書いて福島県の尋常師範学校(現・福島大学)への斡旋を入学を嘆願します。福島民報社の社長・小笠原貞信の養女となったトクヨは、晴れて福島県尋常師範学校へ入学。高等小学校正教員の資格を得て卒業後、油井尋常高等小学校で教員になります。そこで見合い話を断ったトクヨは女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)に入学。文科で尾上紫舟の和歌の授業に熱中しながら、チフスはじめ養父・実父の死を乗り越え、教育・倫理・体操・国語・地理・歴史・漢文の7科目の師範学校女子部ならびに高等女学校の教員免許を取得して卒業します。

「女性体操教師無能論」
 石川県立高等女学校(現・石川県立金沢二水高等学校)で国語教師として採用されたトクヨは、校長から体操を教えるよう通達され落ち込みます。当時の女性体操教員は専門外・無資格で、おもに行進遊戯を教える者が多く社会的評価が低かったのです。嫌々ながらもトクヨは体育専門学校を出たアメリカ人宣教師のもとで技術を教わり、毎朝夜明けとともに浅野川の橋のふもとで自分で号令をかけながら体操の練習に取り組みます。はじめは心身ともに疲弊するも、数か月すると心身ともに明るく元気を増していき体操に熱中するようになります。夏には井口阿くり女史が講師を務めるスウェーデン体操を受講、続いてカナダ人宣教師フランシス・ケイト・モルガン女史のもと独自の体操レッスンを受けます。ダンスに体操にスポーツに、トクヨの授業は大評判となって参観者が絶えず、学校の運動会には大勢の観客が押し寄せ、押すな押すなの大盛況。ついには石川県を回って小学校教師向けに体操の指導を行うようになります。

「女子体育は女子の手で」
 30歳で二階堂姓に戻ったトクヨは、井口阿くり女史に見いだされ母校の東京女子高等師範学校の助教授に就任します。寿退職する女史の後を継ぐべく、トクヨはイギリスのキングスフィールド体操専門学校に留学。女性参政権擁護者である校長マルチナ・バーグマン=オスターバーグ女史のもと、生理学・解剖学・衛生学の理論、教育体操・医療体操・舞踊・競技の実技、教授法を学びます。管理の行き届いた寄宿舎、1日5回の食事、動きやすいチュニックの制服、ホッケー・ラクロス・水泳・ダンスなど運動の楽しさを実感するとともに、女性体育教師の社会での活躍ぶりに驚きます。第1次世界大戦勃発とともに帰国したトクヨは母校の東京女子高等師範学校の教授に就任。当時の日本の体操界では男性教師に全ての決定権があり、女性教師は男性教師に従うものとされる中、上司の永井道明らが推し進める「学校体操教授要目」に反対します。号令と呼唱による訓練と規律、軍隊体操・行進遊戯をもっぱら重視する「男子本位に考えられた体操で女子には甚だ不適切である」。

「二階堂体操塾」
 トクヨは自ら体操講習会を開催して日本各地を飛び回ります。さらに女性体操教師に呼び掛け「全国体操女教員会」(後の体育婦人同志会)を立ち上げ自ら会長に就任します。「女らしい体操家が女子の世界には勝利を収めなければならない。」そして雑誌『わがちから』を創刊して、女子体育の重要性を社会に訴えます。「女子の特徴とする身體の優美、行動の雅致、精神の円滑を図ることで心身ともに美しい女性を育成しよう」。1922年41歳の時に私財を投げ打ち、女子体育の研究機関と女子体育家(女性体操教師)の養成機関を兼ねた塾「二階堂体操塾」を開校します。「この学校ではチャイムがなりません。出席簿もありません。何の資格も取れません。しかし、体育の教員としての指導力をつけて卒業させることだけは、私が責任を持ちます。」トクヨは母親と二人で住み込んで校長・共感・舎監・事務員を務め、毎日滋養の有る食事と良い湯加減の風呂を準備します。1926年日本初の日本女子体育専門学校に昇格・改称。人見絹枝はじめオリンピック選手を育て上げながらも、晩年、教え子の戸倉ハルの尽力により母校・東京女子高等師範学校に体育科が設立されると大きな花束を抱えてお祝いに駆け付けます。

-日本女子体育大学・二階堂トクヨ資料展示室  Tokuyo Nikaido Memorial Museum
-「二階堂トクヨ伝」(二階堂清寿・戸倉ハル・二階堂真寿 著 / 不昧堂書店1960年)

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