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要点メモ『ルポ虐待 大阪二児置き去り死事件』by杉山春


■感想■
2010年7月大阪ミナミのマンションの一室で、約50日放置されていた3歳と1歳の子が亡くなっているのが見つかった。子どもたちは夏にクーラーのついていない部屋の中の、堆積したゴミの真ん中で、服を脱ぎ折り重なるように亡くなっていた。身体は腐敗し一部は白骨化していた。二人の子供を部屋に置き去りにした母親(当時23歳)は、殺意を否定する。著者の杉山氏が関係者に取材を重ね、この事件の「なぜ?」に丁寧に切り込んでいます。

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■2010年の大阪への引越しから逮捕まで
<2010/1/18>数日前に子供2人を連れ、名古屋から大阪へ引越し。この日は大阪ミナミの風俗店で面接を受け、そこの主任に託児所とマンションを寮として与えられ性的関係を持つ。仕事は18~24時で初日だけ託児所に預けたが、その後は子供たちを家において出かけるようになった。「託児所に預けた時、子供が一人泣いていたが、職員は手が空いているのに抱き上げようとはしなかった。」
<3月>ホストにはまる。
<4~6月> 303号室の水道使用量はゼロ。子供たちをお風呂に入れることも洗濯をすることも、ほとんどなくなる。この部屋のゴミは一度も捨てられなかった。
<5/18>長女の3歳の誕生日をホストの恋人と祝う。子供たちは無表情だった。
<6/9>子供たちに最後の食事を与える。コンビニでジュース、おにぎり、蒸しパンと、手巻きずしをそれぞれ1つづつ。袋を破り、ジュースのパックにストローを刺した。リビングの扉の外側からテープを上下2カ所、水平にはり、南京錠をかけた。
<7/29>寮の管理人から、勤め先の風俗店の主任へ電話があり、部屋から臭いがすると苦情を言われたという。
<7/29 20:23>本人がマンションに戻り、2分半後に出ていく。
<7/29 22時頃>本人から主任へメール「子供を死なせた」。その後泣きながら電話。
<7/29 24時頃>W杯観戦で知り合った男性と待ち合わせて会う。そのまま神戸三ノ宮のメリケンパークへ。観覧車の前でピースサインで写真を撮る。
<7/29 25:17>主任が110番。
<7/29 27時頃>主任から本人へ「もう通報した」とメール。その頃、本人は男性と三ノ宮のホテルで性的関係を持つ。朝6時半に大阪で別れる。
<7/30 13:25>本人が指定した場所のコンビニへ現われ逮捕。
<法廷でのやりとり>
・弁護士「(放置が)50日間続きますが、頭に浮かぶことはありませんでしたか?」
・本人「考えが浮かばないわけではないから、でもそれを何か上から塗りつぶすみたいな感覚でした。」
・弁護士「子供たちがいなくなってほしいという感覚はありませんでしたか?」
・本人「ありませんでした。子供のことが思い浮かんでも考えるのを避けるような状態でした。」

■高校卒業から結婚、出産、離婚までの3年間
<2006/4>高校を卒業し、四日市の割烹店へ正社員として就職。ここで大学2年生でバイトをしていた夫と出会う。
<2006/5>夫の母親と会う。
<2006/8>妊娠。「早くママになりたかった。お嫁さんになりたかったのとは違います。早くママになりたかったのは昔からです。」
<2007/5/16>長女が生まれる。熱心に子育てをし夫の母親との関係も深かった。
<2008/10/16>長男を出産。
<2009/2>DVDを借りに行ったまま帰らない、トイレに長時間こもって出てこないという行動が頻繁になる。浮気も。
<2009/5/8>本人の誕生日に家に帰ってこず翌朝帰宅。しかし「夫から「義母が来るよ」と言われ、頭の中が真っ白になり、逃げだしました」。そんな中、本人が消費者金融から約50万円も借金をしていること、夫が会社から預かっていた20万円がなくなっていたことを、親族は知らされる。「生活費に使った生活費が足りないという相談は夫にはしなかった。相談すると良い奥さんと思われないと思ったから」。
<2009/5/16>長女の2歳の誕生日だからと本人から家に帰ると連絡があった。夫は、両親と本人の父親と、父親の交際相手を家に呼んでいた。
夫「やり直したい。」本人「やっていけない。」2歳と0歳の子供を抱えた、23歳と22歳の若い夫婦は、離婚することになる。その場では、養育費や父親との面会をどうするかといった、子供の権利や安全の話はなかった。
<法廷でのやりとり>
「皆に責められていると感じて、その場から逃げ出したかった。離婚したくありませんでした。」「(弁護士)その気持ちを伝えましたか?」「何も言えませんでした。」「私には育てられないと言いました。母親から日か離すことはできないと言われました。」いつの間にか曽於話し合いの席にいない、本人の母親が子育てを手伝うことで話はまとまった。
西田裁判長「被告人が離婚して子供を引き取ることが決まった際、子供らの将来を第一に考えた話し合いが行われたとはみられず、このことが本件の悲劇を招いた遠因であるということもでき、被告人一人を非難するのはいささか酷である。」

■離婚、キャバクラ、風俗へ
<2009/5/17>離婚届提出。本人の母親「養育費はどうするのか?」元夫「払えません」
<2009/5>元夫と子供がお風呂に入っている間に、家を出てしまう。滋賀県の中学の等級制の男性の元へ。1週間後に戻るが、実父に殴られ、二人の子供と一緒に滋賀県の同級生の家に連れていかれ実父と元夫から相手に「子供の籍を入れる気があるか?」と問い「あります。」とその大学生は応じた。
しかしすぐ「現実的に考えたら無理だ」と本人に断った。
<2009/6/1>桑名市の実母の元へ。転入届や児童扶養手当を申し込む。しかし1週間で実母の元を離れる。
<2009/6>名古屋の栄地区錦のキャバクラで働き始める。寮暮らし。
<2009/8/2>2歳の長女がマンション3階の通路で、泣いており警察が保護。ネグレクトへ発展する可能性があると、児相へ通告。この時、行政が本人とコンタクトを取れていれば、子ども手当、児童扶養手当、その他名古屋市の支援で、3年間は毎月9~10万円が入ってきたはず。夜間保育所への入所支援や母子施設への入所もあった。しかし本人は児相からの電話を強く警戒していた。
<2009/10>本人から、新型インフルにかかったので子供を預かってほしいと、元夫へ連絡し仕事が急には休めないと断られる。実父にも連絡したが仕事を理由に断られ、実母は電話に出なかった。
<2009/10/16>長男の1歳の誕生日。しかし元夫から連絡なし。この1週間後に、キャバクラのお客が新しい恋人になる。子供がいるとは告げなかった。託児所に預けることもやめ、養育環境は悪化していく。
<2009/12/8>本人から名古屋市役所へ、泣きながら「子供の面倒を見られないから預かってほしい」と電話。市役所は児相の電話番号を伝える。本人から児相へ電話すると「一度来てください」と言われたが
具体的な日時指定や段取りの話はなく、「やっぱり誰も助けてくれないのかな、と思いました。」
<2010/1/18>大阪ミナミの風俗店で働き始める。

■殺意はあったのか?
・殺意があったとしたら、なぜ食べ物を子供達が食べやすい形で、その場に残す必要があったのか?なぜその後も、子供たちを残した寮の周辺で生活を続けていたのか?
・法廷で、西澤教授は心理鑑定結果から「一種の自己催眠状態にあり、解離的認知操舵という心理的対処の応対にあって、殺意はなかった。」と主張。一方で、精神科医の森氏は、解離性障害などは認められないと主張した。判決で、法律上の殺意はあったと認められた。
西澤教授の話。「誰しも多様な面をもっているが、ある程度その人としてのまとまりがあり、安定性が保たれている。それが彼女の場合、自己が統合されていなかった。本来成長の段階で自己は親との関係、つまり最も重要な他者、保護的な養育を提供してくれる主要な大人との関係でまとまっていく。しかし重要な人との関係が薄いと、自分の洋さがまとまりきらなくなる。彼女は嘘つきだとか、コロコロ変わるとか言われているけど、それは彼女の病理であって、意図的なものではない。保護的な養育を提供してくれる大人がいなかったのは彼女の責任ではないのです。」
・本人「幼い子供たちの元に帰らなかったのは、2人が嫌いだからではなく、子供たちの周囲にだれもいないというその状態が嫌だったから」彼女は繰り返し述べた。
・本人「今でも、これからもそうだし、あおいと環のことは愛している。」
<2013/3/25> 最高裁で、懲役30年が確定。

■より事件の背景を理解するために
本書には、本人の子供のころの話、実母からネグレクトを受けて父親が一人で育てていたり、いろいろな出来事が取材されており、よりこの事件の背景を理解する手助けとなります。

以上、最後まで読んでいただきありがとうございます。本書をお手に取ってみてください。





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