戦後の1953年ごろ福岡県芦屋で日米の懸け橋になったせつこさん・ご家族を探しています 1 Motoko 2021年4月9日 08:01 1945年芦屋 せつこさんの婚礼写真 節子さんはMcDowell家でペギーさんたちに日本語を教えお世話をしていらした方です。ペギーさんは今も節子さんに教えてもらった「あめふり」の歌を覚えています。 福岡県芦屋の航空警察だったのはMcDowell と二人のお子さん お母様は体調もすぐれず日本文化にも馴染めずアメリカに帰国 日本人を助けた大尉(のち中佐) 西日本水害の時に遠賀川の氾濫の中上官の命令なしに自ら住民を組織して救助救援にあたりました。平時のとしては最高の勲章を授与されました。じ 福岡県の航空警察として地元蘆屋の警察とも一緒に働いておられました。おん マックドーウェル大尉・中佐 占領下の福岡県芦屋町に駐留 お嬢様 Peggyさんが私のところにオークションで買った着物について問い合わせがありました。そこで分かったのは、おせわになったせつこさんのこと、お父様のこと。お母様のいない家庭で日本語を教えてくれお世話をしてくれたせつこさん、このアメリカ人家族にとってどれほど心強かったことでしょう。彼女は今も「雨降り」の歌を覚えています。 基地内の学校お兄様はこの中に、戦士江のお名前はホワイト先生。朝鮮戦争があったためかなり多くのアメリカ人家族が駐留していたようです。 地元の方との宴会だと思われます。町長さんもご同席 ペギーさんが子供の頃着せてもらった着物 わたしとペギーさんをつないでくれた着物 オークションで買ったきれないな着物は重くて長いんだけどどんな用途なの?と ダラスの日米協会を通して問い合わせがありました。 ペギーさんと日米の懸け橋になったせつこさんを探すことになりました。60年近く経っているので難しいかもしれませんが何とかせつこさん・ご家族におつなぎしたいです! #福岡県 #戦後の日本 #日米友好 #たずね人 #日本文化コンサルタント #アメリカ空軍基地 #日米の懸け橋になった人の家族を探しています 1 この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? サポート