しようがない

僕の人生の中で「しょうがない」事はたくさんあった。
あくまでも僕の中の、僕の感情ではあるが、
・震災があって人生が変わった事は「しょうがない」
 だってあんな自然災害、誰にもどうしようもない。
・なかなか馴染めないと思いながら過ごしていたあの頃も「しょうがない」
 俺なんて周りよりバスケ下手だし、欠点なんてたくさんあるし。
・あの時あの子と別れたのも「しょうがない」
 俺とあの子じゃ、将来の過ごす場所と夢が異なりすぎる。

・自分の母校の小学校が取り壊される「しょうがない」
 いや、「しょうがなくない

正確に説明すると、「しょうがない」と言いたくない。
けど、おそらく結果は「しょうがない」というんだと思う。



僕の地元は、原発事故の被災地浪江町。
浪江町が地元と言っても、元々小学校が7つあるこの町では、細かく離していったら文化と歴史は異なってくる。
浪江町というと、名前から「波」を連想したりして、海を思い浮かべることもあるし、確かに東日本大震災での津波の影響はすごく酷かった。

でも、僕の地元はどちらかというと山の生活。
イメージでは「ダッシュ村」。
真面目に、「ダッシュ村」は浪江にあったので、風景はあんな感じ。
(細かく言ったら、ダッシュ村あった地域の人に同じにするなと言われるると思うのですが…)

そんな、僕の地元の地区は「大堀相馬焼」という焼き物が有名な地域で、親戚には窯元の職人がいたりする。馬の絵が特徴的なその焼き物は、自分たちの「大堀地区」を繋ぐ、なくてはならないものである。


東京一極集中の現代で語られる、「地方」とはあくまでも「市町村」単位なことが多い。もちろん行政サービスは市町村で行われているし、当たり前の話ではある。けど、僕が2020年4月からの浪江町での生活の中では、それは違うものだと感じることが多い。

僕の実家は建設業を家族で営んでいる。震災復興の影響で少しずつ会社が力をつけてきた。会社を切り盛りする家族の姿は、小さい頃はたくさん見てきたし、自分も子どもながら何かできないかと努力することもあった。震災後は、避難の影響もあり、家族の仕事を、特に親父の建設業の詳しい仕事を見る事は全くなかったが、家の中で雰囲気だけは感じてきたいた。

我が家は、世襲の政治家一家でもあった。小学校の頃はじいちゃんが運動会で挨拶していたし、当時はわからなかったけど家には「先生」と呼ばれる人たちがよくきたりしていた。代は自分の親父に変わり、じいちゃんと親父のキャラと性格などは全く違えど、子どもの頃から今まで、恐縮ではあるが「僕も将来は浪江のために働きたい」そんなふうに思っていた。

けど、そんな僕が地元に帰ってきて行った初めての仕事は、「石ひろい」だった。

すいません。誇張しました。
カッコよくいうと、「田畑の整備事業」。
震災から9年使われていなかった田畑を、また農業ができるように復旧する作業でトラクターに乗ってうなったり、草刈りしたりする。その中で大きな石などを拾う「石ひろい」があるのだ。
文章で書くのは簡単だけれども、仕事の中では少しずつのミスで会社を切り盛りする親父にはいつも怒られる。

「お前は道具の名前もわかんねぇのか」
「服ぐらいちゃんときろ」
「当たり前のこといちいち聞くな」

日に日に自信はなくなっていく。

「大卒で実家に帰ってきて、こんなことやってていいのか」

そんなふうに思うのは時間の問題だった。
でも、僕には得意なことがある。
「しょうがない」と思うこと。
まだ始めたばかりだからわからなくて「しょうがない」
みんなと同じようにできなくて当たり前だから。
しょうがないよ。だってわからないんだから。

でも、「しょうがない」と思うことを愚直に取り組んだ約2ヶ月。
その中では大きな発見がたくさんあった。
仕事は1つずつできるようになってくるし、物事の考え方にはもちろん応用が効く。
でも、一番の自分の中での変化は、「しょうがない」ものを、どう意味のあるものに変化させるかで、それは親父の生き方から学んだ。

親父の口癖はこれだ。
「浪江が元気になってくれればいいんだ。末森で人がまた住めるようになればそれでいいんだ。」

親父の生まれ育った地は、浪江町の大堀地区の末森。僕が震災まで過ごしていた場所でもある。末森は、原発事故後の放射線の影響で人が住むことができない。親父は、そんな末森をどうにか取り戻したいと思って、日々の生活で闘っている。生活の中で、そんな親父の姿勢や考えに触れれば、普段の「石ひろい」は、浪江町の土地を取り戻す、立派な仕事に思えてきた。

今の俺にはできることとできないことがある。それは確かに「しょうがない」。でも、その「しょうがない」が見方1つ変えれば、翔が亡くなる経験を、地元に帰ってきた社会人二ヶ月目で僕はできた。


でも、そんな僕の前にどうしようもない「しょうがない」問題が現れる。
それは「大堀小学校」の廃校問題だ。
つい先日、この学校は教育施設から一般の建物の扱いになり、要は小学校ではなくなった。そして売りに出されていたが、5/15までの期日で採取的な買い手はいなくなり、廃校になることがほぼほぼ決まったと思う。

「しょうがない」

だって、お金がないと学校は維持ができないし、もし誰かが買ったとしても毎年払う固定資産税は、鉄筋の学校の作り上、税率が高く、その支払いだけでも大変だ。あと20年は固定資産税がかかる建物だから。しかも、今であれば、環境省の予算で町の負担がなく学校を解体してくれる。単純に見ただけでも1億はくだらない工事になるだろう(間違ってたらごめんなさい)。

しょうがないだ。
大堀小がなくなるのは仕方がないことなんだ。

なぜ、僕がこんなににも大堀小にこだわるのか。
それは、この小学校こそが大堀地区の最後の砦だからだと思う。
大堀という地区内では、現在でも人が住める地域と、住めない地域(帰還困難区域)が混在する地域である。地域内対立が起きたりもしているのだ。

すごく簡単にいう。「金の話だ」。
だって道一本挟んで、賠償金が違うんだから、それは対立もするよ。
だって片方は、「本当に住めない理論」で話をする。
でももう一方は、「一応住める理論」で話をする。
心持ちが違うんだ。浪江のため、大堀のため、そんなこと思うなんてこれは難しい話だよ。

地域内対立が起こるとしても、僕たちは必ずつながれることができるのは、「大堀小」だけだと思う。だって、僕たちはその小学校で、時間は違えど、過ごして思い出があるのだから、そして僕たちが何かあると守ってきた1つの場所があるのだから、だからこの小学校がもつ、浪江町の大堀地区のアイデンティティはものすごくあるし、この象徴がなくなってしまえば、僕たちは結局、浪江町の意見に飲まれて、2度と自分たちの存在はこの先残っていくことはないのかもしれない。そんな恐怖感すりゃ感じる。

「時代の流れ」
確かにそうかもしれない。
でもこうなったのは、必ずしも時間の流れではない。
原発事故が関わってる。
でも、結局が僕たちが何かをできる力はもう残されていない。
僕たちのつながれる唯一のものは、取り壊されてしまう運命がほぼほぼ100%決まっている。

「しょうがない」

結局は、浪江町の中では、大堀地区は見捨てられるものなのかもしれない。


一端の文章はこれでおしまい。
これはこれで続き。

確かに今後の「浪江町」のことを考えれば、「大堀小学校」の取り壊しはお金がかからないことなので絶対に、特ではある。でも、本当にそれとは引き換えに失うものは、もっと大きい。絶対にもう大堀の人が帰ってくること、そしてアイデンティティはなくなる。もはや、浪江の話をしても、ありきたりな震災後の見た風景しか話さなくなるのだろう。それか、他の地域の他の人になって、自分の生まれ育った場所は、荒廃した見たくなモノになるんだろう。

でも、僕たちはそれを受け入れる覚悟が必要なんだと思う。
この場所がなくなっても、大堀地区は残っていく、もしくは無くなっていく。その「覚悟」が大切なんだと思う。

僕は正直できていない。この地域は、小学校が無くなったら終わりだと本当に思っている。親父のことを悪くいうつもりはないし、親父は誰よりも尊敬している。けど、結局は自分たちの今年考えていないわけで、「若い人」と言葉を使う時も、結局は言葉だけで、行動と金は後回し。

僕たちは覚悟もできていなければ、そのうち忘れ去られるんだと思う。

しょうがない





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