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小説「灰色ポイズン」その18-吉野ナース

ピピピーピピピッ!遠くで、でもはっきりと聞こえる高音で野鳥の鳴き声が響いた。

九州の田舎の都市とはいえ、こんなに野鳥がいるものだろうか。私はぼんやりとそんなことを考えながら瞼を開けた。
薄暗い闇の中に暗めのオレンジ色の光が放たれている。ん?何かいつものベッドと寝心地が違う。うっすらと目を開けると、天井の端から暗いオレンジ色の灯りがこぼれていた。ここどこだ?

その瞬間、目があった。誰に?天使に!夜勤の吉野ナースが私を覗き込んでいる。ちょっとびっくり。
少し胸の鼓動が早くなった。
あ、ここは美菜子先生のいる由流里病院だった。

「森野さん、おはようございます。朝早くからごめんなさいね。ドクターから血液検査の指示が出ているので採血しますね」と彼女は優しく微笑んだ。

吉野ナースはピンク色のチューブの駆血帯を手際よく巻き、瞬く間に私の腕から採血をした。
驚いたことに、朝早い時間にもかかわらず一発で成功した。私は朝早いと血圧が上がりきっていないため、血管が沈んでいて採血が難しいはずなのに!
吉野ナースは見事にやり遂げた。

「すごい…」私は安堵感と感動で呟いた。

吉野ナースは次々と朝の業務をこなしていく。血圧測定、検温、バイタルチェック。彼女の動作はまるで踊っているかのように美しく、私はその手の動きを見惚れていた。手話通訳をしている知人の林由香の手の動きと同じように感じられた。

「私の顔に何かついています?」と吉野ナースが訊ねてきた。

「あ、すいません」と私は慌てて答えた。

「謝らなくて大丈夫ですよ。何か気になってお聞きしてみただけです」と彼女は微笑んだ。

「吉野さんの手の動きがとても綺麗で、見惚れてしまいました」と正直に告げると、吉野さんは少し照れ笑いのような表情をした。

「そんなことないですよ。でも、ありがとう」と彼女は言った。

その後、私はトイレに行き、洗面や歯磨きなどの準備をしてもらった。身支度を終えると、時計は7時前を指していた。朝食は7:30なので、あと約30分何をしていたらいいのだろう。ここにはラジオもテレビもない…もっとも、私の部屋にもテレビもラジオもないのだけど。

突然、部屋のドアがノックされた。ドアが開くと、吉野ナースが再び姿を見せた。

「森野さん、少しお話しませんか?」と彼女は優しく問いかけた。

「もちろんです。何についてですか?」

「実は、今日はちょっと特別な日なんです。美菜子先生からの許可をもらっているのですが、一緒に散歩に出かけませんか?」

私は驚いたが、すぐに微笑んで答えた。「素敵ですね。行ってもいいのなら行かせてください」

吉野ナースは微笑みながら頷いた。「ありがとうございます」そして言葉をつづけた。
「今日は病院の創立記念日で、毎年この日は患者さんたちに少しでも気分転換をしてもらうために、散歩に出かける許可が出るんです。もちろん、状態にもよりますけど。外の新鮮な空気を吸って、リラックスしてもらうことが目的なんです」

「そうだったんですね。病院にもそんな素敵な伝統があるなんて、知りませんでした」と私は感動を込めて言った。

「ええ、特に新しく入院された患者さんには、外の自然な草や木々そして花々などの世界を感じることで少しでも心の重荷を軽くしてもらいたいと考えています。森野さんも最近色々とおありになって、疲れていると思いますし、少しの間でも外に出ることで気分が変わるかもしれないです」

「確かにそうかも」と私は同意した。「外の自然の世界を感じることができるなんて、楽しみです」

吉野ナースはにっこりと微笑んで、「それでは、準備ができたら一緒に行きましょう」と言った。

こうして、私は吉野ナースと共に病院の外へと散歩に出かけることになった。病院の庭には色とりどりの花が咲き誇り、空は青く澄んでいた。私たちはゆっくりと歩きながら、風に揺れる木々の葉音や鳥のさえずりを楽しんだ。心の中の重荷が少しずつ解き放たれるのを感じながら、私はこの瞬間を心から楽しんでいた。

病院の外は美しい朝の光に包まれていた。
緑豊かな庭園には、色とりどりの花々が咲き誇り、特に白い百合が朝露に輝いていた。

風が吹くたびに木々の葉がさやさやと音を立て、まるで自然の音楽を奏でているかのようだった。
そして、吉野ナースと一緒に歩くと、彼女がいかに人々に愛されているかがよくわかった。

病院のスタッフや患者たちが、緑のアーチをくぐりながら、彼女に笑顔で挨拶をしているのを見て、私は彼女の温かさと優しさを改めて感じた。
ベンチには色とりどりの花が飾られ、通路の両側には美しい植え込みが続いていた。吉野ナースの存在が、この美しい風景にさらに輝きを与えているように思えた。

「森野さん、どうですか?この景色」
と吉野ナースが訊ねた。

「はい、とても素敵です。ありがとう、吉野さん。病院でこんな素敵な時間を過ごせるなんて思ってもみませんでした」

その瞬間、私はふと感じた。もしかしたら、吉野ナースは本当に天使なのかもしれない。彼女の存在が今の私にとってどれほど大きな救いであるかを改めて実感した。

朝の光の中で、私は吉野ナースと共に歩きながら、これからの精神科病棟入院2日目という不安すぎる状況の新しい一日が少しだけ明るく感じられるような気がした。

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