アンチナタリズムの強点。
20代を過ぎると、
「私は生き残ったんだな」
と思うことが多くなった。
10代の頃は本当に辛かった。本気で死にたいと思ってた。
私は学校という教育機関に馴染めていた時間が皆無だったから。
いつも爪弾き者だった。他人よりも劣っている自分を俯瞰した時に辛くてたまらなかった。
*
私はなんだかんだ生きてこれた。
学生の自殺なんてそこまで珍しくもないのに。
今日命を落とした大勢の人たちの中に自分が含まれていないこと、当たり前のように今日を生きて明日も明後日も生きていくこと。それは当たり前ではない。
世の中には親から虐待を受けたり、一時保護所でも虐待を受けたりして命を落としたり、心を壊されてしまう子供がいる。
いじめを受けて命を絶ったり、異常者から性加害を受けたり命を奪われたりする子供がいる。
私はそういったことを経験しなかった。
もちろん大人でも凄惨な事件に巻き込まれることはあるけど、心が完成していない段階でとてつも無い量の未知の恐怖を叩き込まれる状況とは比べられない。
また、社会に出てからもいじめはあるけど、大人になった私は限界を迎える前に自分で逃げ出せる。
でも子供の頃は、学校を変えるのも、引っ越すのも親に相談しなくちゃいけない。
親にいじめに遭っていることを伝えることがどれだけ辛いか。そもそも伝えられる能力のある子供ばかりではない。
私は悪口を言われたり殴られたりしたことはあったけど、集団による長期的ないじめというのは受けたことがない。
小学校といういじめの巣窟で、色々ないじめを目撃したけど、私は見ているだけで辛かった。そして自分なら耐えるのは無理だろうと思った。
私は運が良かったから今ここにいるだけ。
文化人類学的に見ても、学校という閉鎖空間でさまざまな評価をされながら生活するとなれば、集団の中でスケープゴートとなる誰かが必要になる。
いじめは減らすことはできても、無くすことはできないように思う。
しかし、だからと言っていじめに対する取り組みが無駄だと言いたいわけではなくて。
いのちの電話とか、最近だと『かくれてしまえばいいのです』というネットに居場所を提供しようみたいな、取り組みがあったりするみたいだ。
色々な方が自殺やいじめの問題など、解決しようとはしていて、それによって少しでも多くの人が救われてほしいと思う。
けど、本当に救われねばならないような層の子供には届かなかったりするんだろうなって、何もしてない癖に何を言ってるんだって話だけど。
スパチャするみたいな感じで生活困窮してるシングルマザーの方とか施設の子供たち、障害があって働けない方たちに支援できればいいのにと思う。
現状、そういったことをするのが気軽にできない。調べてもなかなか難しい。
もっと簡単にできれば、人々はもっと助け合えるのでは?
私のような、こんな自分でも誰かの役に立ちたいと思いつつも何もできないでいる人って多いと思うから。
*
現実には苦しくて仕方がない負の要素が満ちている。
どうしようもない苦しみを日々生み出しつつ運営されている社会。これだけ技術が発展しても尚、人は働かなければ生きていけない。
第三次産業とか諸々要らなくないですか、と私は疑問なんだけど、それはいいとして。
さまざまな苦しみに目を向けた時、私はこの世界をどうしても肯定できない。倫理的に、肯定すべきでないと思ってしまう。
色々なニュースがあるね。
高校生が丹精込めて作った万博の出し物が心ない誰かによって壊される、飲酒運転で逆走した車によって何の罪もない9歳の子供が死亡して判決は懲役4年、小学校教員がTDLで女性に露出して逮捕。
異常性癖を持って生きていく苦悩というのはある。私もどちかといえばそうだし。どんな性的嗜好もそれだけで否定されるべきではないし内心で思っているだけならいいけど、それを理性で抑えきれずに行動に起こしてしまうのなら、それは人間ではない。100%非難されるべきこと。
そういう痴漢などの性犯罪は絶対に無くすべきだけど人類が存続する以上0にするのは極めて困難だ。減らすために対策したり撲滅キャンペーンとかやっても、その間にも被害に遭って苦しむ人が絶対にいる。
それなら、子を作ることによる苦しみの再生産をしないこと。これが何より大事で、愛のある行為だと思う。
こんなことを言うと、
「そうやってわざわざ世界の悪いところばかりに目を向けて、執着してそんなことに何の意味があるの? 本当にその人生で死ぬ時後悔しないの? 反出生主義を広めようとするよりも、どうせなら前向きに社会が少しでも良くなるような活動をしていこうよ」
というようなことを言ってくる人が多々いて、それに対して私は愛をもって反論したい。
この世界に不幸で苦しんでいる人がたくさんいる状態で、自分がそのうちの数人を救えたとして、そんなことに何の意味があるの?
苦しくて自殺したり、殺されたりする人がいる世界で、それでも笑って生きていこうとするのはどうして?
この世界から苦しみを完全に無くすことなんて絶対に無理とわかっているのに。
私は毎日オメラスから歩み去る人々みたいな気分だ。
別に自分の感受性が高いことをアピールしたいわけではない。
私がこのように考えられるのは自分の人生に対して諦めをもって生きているのが大きいと思うから。
感受性+諦観=反出生主義 なのかも?
*
自分の人生を向上させようと一生懸命生きている多くの人間にとって、反出生主義は受け入れられない考えだろう。
反出生主義の考えの核には諦め、消極性がある。
苦しみを無くすことはできないから、子供を生み出すのをやめよう。社会の衰退、人類の絶滅を黙って受け入れよう、と。
そこに対して、何かすべきであるという抵抗感が生じるのだろうなと思う。
無理な理想であっても、辿り着くために一生懸命できることをやる。コツコツ積み重ねる。
それが美徳であると、社会に適合できるように学校教育で刷り込まれる。
刷り込まれるというか、それが正常なんだ。多数決原理によりマジョリティが正義となるから。
現状に不満があるなら自分を変える。過去を振り返っても何も変わらない。未来のために少しでも行動あるのみ。
そういうあり方を個人的であると定義する。
一方で、不満ばかりで自分を変えようとしない、過去ばかりに縋って未来への行動をしないあり方を非個人的であると定義する。
非個人的な人間は自分が向上することに意味などない、それによって何も変わらないのだという論理のみを固持する。
大抵の場合、過去の出来事による学習性無力感により、未来に目を向けるエネルギーが削がれている。
どうしようもない自分の人生を変える力なんて持ち合わせていない。勇気を出して行動して失敗した。恥をかいた。それを直視することは苦しすぎるから心を殺した。
別に何も感じていない。宇宙から見れば人生なんてちっぽけで何の価値もない。そう思うと楽になった。
弱者であることをアイデンティティにした。自分の人生に重きを置くことで再び傷つかないように。
そうすることで私は自分の人生を生きる代わりに、他人の人生を生きる状態になった。
他人とはすなわちこの世界に生きる人類のことである。
個人的に生きているとどうしてもこの境地には辿り着けない。
今日自殺した誰かに対して感情移入してその痛みを感じる。そうすれば一刻も早くそれを無くさねばならないことが分かる。
個人的な生きがいとか、未来なんて、人ごとではないから考えられない。
個人的に生きていると、自分の夢を叶えたり、愛し合える人と出会ったり、精神が安定して前向きに生きれるようになってきたり、人生が日々移ろいゆく。
その渦中においても、厭世思想を継続して持ち続けることができるほど人間は強くないのではないか。
だから多くの人がこの残酷な世界を否定できない。少しの希望が見えた時に、人はそれに負けてしまう。
負けるというのは具体的には、
「辛いこともあるけど、人生はそれだけじゃない。この世界には素敵なこともあるんだ」という逃げの思想を持ってしまうこと。
希望なんてない中で、どうしようもないほどの苦しみを味わってる人に感情移入する痛みから逃げるんだ。
あと、自分の人生を充実させるために子供を作ったり。
(私は両親のことが好きだし、ここまで育ててもらったことにはとても感謝している。ただ、そういった感情に流されることによって思っていることを押し留める必要はないと私は思う故に下記のことを語る。
また、個人的な考えとして、反出生主義は人類全体の出生行為の否定であり、自らの親を否定するというものではない。)
家庭を持てば、競争から降りて、自分の幸せを 合法的に諦められる。これはまさにエーリッヒフロムの言うところの自由からの逃走だ。親という役割によって自由を回避。
子供が幸せなら充実感を感じられる。子供や妻のために一生懸命働くことで人生に意義を見出せる。
人生はクソ長いけど、そうやって一生懸命働いて、子供の成長を見守っていると意外と時間の経過が早いのだろう。
そうやって無事に人生を終えられたとして、子供はどうなる? もしかしたら結婚できなくて何にも熱中できなくて、独りきりで寂しく死んでいくかもしれないよ。
もしくはその子供も子供を作って、後世の世代に生きる苦しみをバトンタッチし続けるか。
*
そうは言いながら私も、陰キャコミュ障じゃなかったらきっとその一員だった。
私は出生主義者の方を否定する気はない。そんなことに意味はない。
闇雲に主張したり相手に押し付けたりするのではなくて、より多くの人が反出生主義を受容できるように尽力するのが正しいあり方だろう。
反出生主義はどんな思想よりも愛のある思想だけど、マジョリティの人間には根本から受け入れられない思想であること、それは重々承知する必要がある。
そもそも人間には自由があって、それは法律に反さない限り無理に妨げられるべきではないと私は思う。
私も街で子連れの家族の何気ない日常を見かけると温かい気持ちになる。
家庭を持ちたいと思うことは自然なことで、それを叶えられる強い人間が家庭を持つことは仕方がないことなんだ。
でも、本当にそれでいいのか、倫理を問うことができたなら、少しずつ変わっていくはずだ。
反出生主義に必要なものは愛だ。
きっともっと社会が衰退してくれば、今中間層にいるような人間が弱者になっていけば、二極化がさらに進めば、少なくない人数の人間が理解できるはずだ。
苦しみを自分の代で終わらせることが、後世の子供たちへの愛だということに。
倫理的、論理的には100%正しい思想が受け入れられないということは、人間にとって論理や倫理とは必ずしも絶対的なものではないからだ。
なら人間にとって絶対となり得るのは信仰だ。信仰といえばキリスト教。キリスト教といえば隣人愛。
冗談ではなく、反出生主義=隣人愛だと思うけど、そんなこと言ったら熱心なクリスチャンの方には怒られるかな?
夜暗くなってから娘を習い事に行かせるとなれば、大抵の親は心配して送り迎えをするだろう。この世界は危険に満ちているから。
それで自分の子はいいけど、世の中には親が忙しかったりあまり心配しなかったりして1人で行かせることもある。
そうなった時に事故に遭ったり、犯罪に巻き込まれる可能性は0ではなくて。
それを肯定しないことは自分の身の回りの人だけ愛するのではなくて、自分の届かないところまで愛を向けるということだ。
幸せを与えてあげたい、よりも、苦しみを味合わせたくないという選択を取ってあげよう。
生病老死というデフォルトの苦しみ+ランダムで振り分けられる苦しみ。
その苦しみを味わうことを生まれてくる子供は自ら同意できないのに、親の意思で勝手に決めてしまうことはおかしくないのか?
考えた末に、人類が「いや、おかしくないよ」というような結論を出すのならそれでもいいと思う。人類が進化の果てに出した結論なら何でも尊い。
でも私は反出生主義的な結論を人類に期待している。いつか辿り着けるのではないか。
*
私に何ができるだろう。
少しでも生まれてくる子供を減らすために。
ちなみに、この思想を広めることで自分が認められたいなんて、そんなことは微塵も思わない。
「結局ネガティブな発信は簡単に共感してもらえるから、自己顕示欲を満たすためにやっているだろ」
と反出生主義を歪んだかたちで理解している人はネット上でもちょくちょく見られるのだ。
確かにそういった人はいるけど、純粋な反出生主義者というのは、生まれてくる子供を減らすことによって苦しみの再生産を止めるために少しでも自分にできることをしているだけだ。
あと、人生が苦しいならそれを自分の努力によって乗り越えるべきだ、みたいな考え方が強すぎる人が稀にいるよね。マッチョイズム的な。
そういう人がジョージメン◯コーチとかにハマるのかな。
確かにすごいけど、世の中には色々な要因で努力できない人って一定数いて、だからこそ努力できる人が総取りできる。努力主義は結局自分が救われるだけの閉鎖的な思想なんだよな。
そもそも条件として救われない人が存在しなきゃいけないのに、その救われない人のことを全く考えない。明確に格差を作ること前提だから良くないと思う。
当時インドで上座部仏教を小乗だと批判した大乗仏教徒の人とかも同じ気持ちだったのかな、なんて。
……私にできること、それは現時点で思うのは、反出生主義者でも楽しく生きられることを発信する、とかかな。
感情に訴えることが必要だから。
反出生主義者として生きたら折角の人生を棒に振るとしたら、反出生主義なんて流行るわけない。
反出生主義でも明るく元気に、前向きに色々なことにチャレンジしていければ、別に反出生主義者になってもいいかなと思うはずなんだ。
よく見かける、Twitterなどを利用した布教活動よりその方がいいような気がする。結局は強者層を取り込まなければならないから。
弱者同士の厭世思想の循環などあまり意味がないように思う。必要以上に内側にこもって、思想思想してても生産性は低い。←私の今書いてるこの文章への最大のブーメラン。
でもそういったこともある程度は必要だと私は思う。ネットで社会へのヘイトをばら撒く行為は少しは世の中のネガティブを助長してくれるから。それは社会の衰退につながる。
それに、これは立派な弱者戦略でもある。自分を守るためだよ。
でもゆくゆくは私自身、もう少し色々やってみたいという気持ちがあるんだ。まだ若いからかな。やっぱり人生は楽しい方がいいというのは分かる。それは当たり前だ。
生まれてきてしまった以上は幸せに生きた方がいいってショーペンハウエルも言ってるんだから。
でもそれをまだ生を受けていない段階の子供に押し付けてはいけない(戒め) 。生まれないで済むなら生まれない方がいいに決まってる。
子供を産む=麻薬を勧めること、と誰かが言ってたな。わかりやすいね。
私は変わるぞ。面白い反出生主義的コンテンツ。私にしかできない。外界に興味を持って、ポジティブに色々な行動を起こしていこう。人と関わろう。面白そうだな。失敗したって挫けないぞ。
私が成功したとしたら、私は成功者側の人間だったというだけ。別にすごく偉いわけではない。
世の中、失敗者側の人間がたくさんいるお陰で、成功者は成功者たり得るのであって、コインの裏表のようなもので。
自分が幸せになってもどうしようもない苦しみは存在する。それは私の別の世界線かもしれない。
だから私は反出生主義を貫いて、絶対に負けてはいけない。この世界を肯定なんてしない。
少しでも強者側の人間が共感を持って、実践してくれれば有難い。だから許してほしい。
結局は許されたかっただけだ。いじめを見て見ぬ振りしかできなかった自分。人が人を殺す恐ろしい世界で、何もできない自分の罪の意識をなんとか和らげるため。
それでもいいじゃないか。完全な利他でないといけないなんて、そんなことはない。
私は反出生主義者としてできることをやるんだ。少しでも救うんだ。
でもたまに、そんなことはどうだっていいって思ってしまうことがある。自分さえ良ければ、って。人間は弱いから、どうしても負けそうになる。彼女が欲しくてたまらない。恋愛がしたい。
そんな時はふとは考える。自由意思なんてないんだ、全てはあらかじめ決まっている。
結果はすでに決まっているから、その結果が望ましいものであることを私たちは祈るしかないんだ。
負けそうな時、きっといつか人類が自らの意思で出生を卒業できるのだと願おう。
太陽や地球には寿命があるから50億年もすれば多分滅びるけど、それまでに人類が進化の末に出生を止めることができていたら、それ以上に素敵なことはない。
そのための、ほんの少しの役割として私は存在しているんだ。でも正直いてもいなくても変わらないよ私1人なんて。
でも確かに存在しているんだ。
私に何ができるだろう。
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