見出し画像

流れる時間と治癒力

縮小作戦中の森のキノコです。

経過としては・・・・

断捨離
うまく動かなくなったカウンターに置いていたオーブンと、箒、そしてキッチンの届かない一番上の棚にひしめき合っていた瓶たちとサヨナラしました。

ダイエット
大きい決め事はせずに、「甘いもの断ち」と「1日2食生活」2日目。
感じたこと、今はとりあえずありません。
以前は体がすぐ軽く感じたのですが・・・。


昨日今日と、朝から晩までフル回転だったため、まだできてません・・。
(緩すぎる・・・・これが更年期の時期のチャレンジ、これでいいのだ・・・)

さて。
1月から、ずっと引き出しに入っていた、お悔やみのカード。
今年の1月に届いた、友人のお母様からの彼女が亡くなったという手紙。
どうしても返事を書きたかった。
けれど、一度読んだあと、読めずに2か月が過ぎ、3月に入って少し心が上向いてきた時、今のうちに書かないと、と彼女との写真をプリントアウトし・・・たまではよかったのだけれど、下旬に差し掛かり、日本から桜の便りで、またノックアウト。
こんな時間を経て、突然、今朝引き出しを開けて、カードと頂いた手紙を取り出し、返事を書くのにダイニングテーブルに着いた。

淡々と、カードを書いた。
封をしてそれをバッグに入れて、買い物袋を持って、車に乗る。
淡々、と。

薬局の前にあるポストに、投函した。
涙をこらえながら、の、この行動。
彼女がここにいたら、きっとメッセージを送って、「頑張りましたーー褒めてくださいーーーーー!!!」と言っただろうな。
そうすると、「うん、キノコちゃん、お疲れさまだったね!よくやった!」と返事をくれるであろう友人。
そんな彼女が本当に、もういない、のだ。
淡々としていた自分なのに、突然感情と涙が一気にこみあげてきた。

でもその時空を見上げた。

不思議なもので、彼女が亡くなってから、思うことは、人の死後は「幽霊」とか「魂」とかそういうものではなく、「空気」「空間」「雰囲気」のようなものになるんじゃないか、と感じるのだ。
しっくりとくる言葉が見つからないのがもどかしいのだけれど、空を見上げたのもそう。
彼女が「その空気」の中に存在しているような気がしたから。
何故か見えない力で、頭を動かされたような、感じにも似ている。

けれど、ドラマで主人公が空を見上げると、亡くなった人や遠くにいる人の顔が青空の中に浮かんで、微笑みかける、というような、こととは違うのだ。

この感覚で私は彼女の存在を感じているような気がしている。
彼女の「魂」でも「影」でもなく。
「空気」

確かに見上げた空にそれを感じた。

いや、気がふれたのかな。
それでも、いい。
ただただ、彼女に、お姉ちゃんと呼んでいた彼女に、会いたい。
この5カ月の出来事の話をしたい。
無性に会いたくなる日があるのだ。
でも、もう電話で話すことも、彼女からのメッセージが届いた着信の音を聞くこともない。
その現実を考えると、深く悲しみの中に落ちてしまう自分がまだ、いる。
だけれど、私は生きることをもう少し頑張ってみようと思う。
楽しく生きること、「最後くらいは好きに生きること」をやらないと、私はまだ、お姉ちゃんの住む世界には行けない。うーん、行く気がしない(笑)し、母親業もけじめをつけないと・・・。
不思議と、見ててね、なんて言葉は出てこない。
でも、彼女の「空気」を感じる瞬間があったりするのだ。

きっと人が亡くなるというのはこういうことなのかもしれない、と最近漠然と思うのだ。あくまでも個人的な感覚なのだけど。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?