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みんなちがってみんな、いい。

こんにちは。
またまたスキを下さる方に感謝をしながら、そして感動しながら開いたnote。
スキを下さった方ありがとうございます。
嬉しさの気持ちでいっぱいの森のキノコです。
私にとっては本当に大きいことで、森の生活に少しずつ近づけている、そんな気になるのです←単純(笑)、いいんです。単純で。キノコなので(笑)

今日も外は春真っ盛りの温かい日差しがさしています。
そんな中で、このnoteを始めた理由のもう一つを今日はお話ししたいと思います。そして本格的に森の中での「キノコのつぶやき」が本格的にスタートです!
タイトルにしました「みんなちがって、みんな、いい」
娘がまだ小さかったころ、「にほんごであそぼ」というNHK教育(今はEテレというのでしたっけ?)で放送していた番組を日本に行くとみていました。
最後の歌で、この歌が流れてきます。コニタンと可愛く着飾った子供たちが歌います。
金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」です。
ここに詩を書くと長くなるので省略させていただきますが、「みんなちがってみんないい」この言葉が全てです。

前回書いた私の友人はここ数年よく言っていました。
自分は結婚したけど離婚をし、子供も持たず、キャリアというキャリアも持たずただただ、今を迎えている。何もなく。
彼女の結婚生活は「夫を養う」ばかりで働きづめの生活でした。
自分のやりたかった仕事も思うようにできず、「生活費を稼げる」方を選んでいました。
けれど、彼女は大学も卒業し、専門的な仕事をし、二つの仕事をこなし日々を回していました。
しかし日本に帰り、就職活動をしたとき、自分が外国でやってきたことはゼロ(資格がその国で有効か有効でないかでも大きく違います)に等しく、外国で自分の人生を終わらせるであろうと信じていたか彼女の進路変更はゼロに戻してしまったのです。

彼女が「子供も持たず・・」というたびに、私は「いやそうじゃない」と反論していました。唯一彼女に反論していたことです。
「結果」を残すことが人生。
「履歴書がすべて」という人生。
「肩書が大事」という人生。
私は昔から疑問に感じていました。
もちろん、短大卒業の遠吠えと言われるであろうことも覚悟して。

どこの大学をでたか、どんな人と結婚し、「沢山」子供を産んで、夫婦で一流と言われる企業もしくは、高収入を得、素敵な一戸建てに住み、流行りの車も所有する。
そして50を過ぎたら、みんな役職に就き、ピラミッドの頂点に届いている人もいる。

これで人生「功績を残した人生」だったと、言えるのが昨今。

たまに我が家の猫を見ると、「存在し、生きる」の毎日だなあ、と思う。
なんら私たちも変わらないんじゃないかと、思うのだ。
違いは、もちろん、お金を稼いで、衣食住を確保し、生きていかないといけないし、システムの中でルールを守って生きている。
でもそれ以外は、「存在し、生きている」
それもみんな違うのだ。好きな食べ物も、好きな車も、家の形も、田舎暮らしが好きな人もいれば断然都会派!という人もいる。
この中には正解もなくて、不正解もない。
仕事も接客業が好きだとか、デスクワークがいい、とか一日中電話で話すことが苦痛ではない人もいる。
人それぞれ。

少し前、私が娘の学校の近所のカフェで働いていたある日、娘が「バイト探している先輩がね、カフェは最低賃金で学識のない人間が働くところだからいやだって言っていたんだ」と言ってきた。
この先輩というこ、お母さんとうちのカフェに来たことがある。
なるほど。と思った。
悔しくないといえばうそになる。
でも、私はそこで、息子たちのような同僚と出会って、本当にお母さん扱いではあったけど(笑)沢山助けてもらった。わちゃわちゃなおばちゃんでも、嫌な顔一つせず。わからないゲームの話を聞いたり、新しくできた彼女の冷やかしをしたり、お客さんも常連さんが多く、少しでも休むと「昨日どうしたのーー?」と聞いてくれる。自分が存在していた場所だった。
「そっか。でも働いている人は一生懸命働いているんだよ」とだけ娘に返した。その後娘も馬鹿にされたようだけれど(私が最低賃金の仕事をし彼女のお母さんは教師だった)気にするな、とだけ言い続けた。

生きていくことで大事なことって、「功績を残すこと、生きる価値のある人間というグループに所属すること」のようなことをかなり体にしみ込み続けたような気がする。
でも、子育てをして、子供たちをみて、人とのつながりが独身時代とは違う方向で広がってきたとき見えたものは、「優しい方向」で生きていくのが大事なことじゃないかな、と。

私は友人が「無意味」と感じていた彼女の人生を全くそうは思わない。
生きていて存在価値のある人生だったと思う。
それプラス、私という存在こそ小さく、地位も、社会的に言えば存在価値もないおばさんになってしまったけれど、こんな私を支えてくれた。
そしてそんな自分が今、「自分は生きていて存在していい」のだ、と思える。
高収入の取れるキャリアもない、子供も一人しか産んでいない、終いには離婚を企てている。太っているし、高血圧だし、救急車には数回乗ったし、見た目はおばさん、それでも私は生きて存在している。
しかも、連ねた自分の現状を見ても、「それが何か?」というスタンスを変えることはない。すねることもない。
人生楽しんだもの勝ち。社会貢献しながら、楽しむ。
終いには最近地元の友人に触発され、離婚後は恋でもするか、なんて言い始めている始末。笑。

沢山悔やまれることはあるのだけれど、亡くなった友人の口から「そうだね」という同意をもらいたかった。
人生そんなに悪くないかもね。と。
海外を渡り歩き、いろんな町に住み、メリーポピンズのように、飛んであるった彼女。
私には素晴らしい人生に見えてしょうがない。

結果ではない。幸せだったか。沢山笑ったか。楽しいと思えたか。
それで十分じゃないか。人がどう思うをと。
だって、みんなちがってみんな、いい。なんだもの。
ひとそれぞれできること、できないことがある。それでいいのだ。
違うから楽しいのだ。違うから大変なのだ。
でもそれが人生を楽しくもするし、学びにもなる。
人は人から学ぶと思う・・・・多分。

とはいえ、私は森の中でひっそりと、キノコとして静かにこれから暮らしていきたいという矛盾もあるのだけれど。
みんな存在していて素晴らしい。
みんな沢山の生きてきた物語を持っている。
そんな話を聞くのが楽しい。
娘たちの世代を見ると心から思う。
「人生楽しんだものがちだよ」って。

みんなちがってみんな、いい。
ひとりひとりがそう思えたら、優しい世界がやってきそうな気がするのは私だけだろうか。

やってみなきゃわからない。
高学歴でも、美魔女でも、資産家でもない、「たかが森のキノコ」がどこまでいけるか。でも、私は最後の日まで発信し続けたいこと。
みんな存在していいのだ。みんな自分の人生の主役であって誰もそれは批判できることではないことだって言い続けたい。
これは、亡くなった友人との最後の時間に感じ、そして強く願ったこと。一人でも多くの人に、感じて、そして楽しい幸せな日々を過ごしながら「存在」して欲しい、そんな願いを届けたくて、このnoteを始めたのでした。

だからこそ、皆さんのスキがとてもありがたく、そしてキノコの野望がぴょこんと、芽吹く2023年の春。
小さな港町は、今日も暖かな春の心地よい風が吹いています。


追伸
写真は私の大好きな毛糸屋さん。猫の店員さんが可愛いのです。
冬は過ぎたけれど、温かい部屋の中で編み物をしていた時間が何故かすでに恋しくなります。

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