見出し画像

科学と哲学の狭間に② 科学者引退


「竹ノ内君の言うことはねえ、哲学なんだよ。僕らは科学者なんだから科学の議論をしなければいならない。科学者と哲学者の違いって何だと思う?僕は手を使うことだと思うけどね」と、高校1年の時に数学の先生に言われてから、哲学者と科学者の違いって何だろうとずっと考えている。考えながら、科学者として哲学に寄って行かないように細心の注意を払いつつ、一応大学の医学研究者として生きてきてた。大した仕事ができたとも思わないけれど、科学という学問に対して誠実であろうと努めて、気が付いたら50歳をこえてしまった。実に40年近く科学と哲学の違いとは何ぞやと考えてきたわけで、そろそろ答えを出すか、問いそのものを次の世代に投げる必要があるのではないかと思う。
「学生諸君、科学と哲学の違いって何だと思う?」

私たちはこの世界を、宇宙を、自分を取り巻く地球環境を、自分自身の命を、何とか理解したいとそれぞれに思っている。理解の手段は科学でなくても、哲学でも宗教でも芸術でも、各個人が一番腑に落ちる方法を取ればいいと思う。自分が科学の道に進んだからといって、他の分野の世界観を否定するつもりは毛頭ない。むしろ、科学の世界に身を置くものであるからこそ、「科学的な世界の理解」というものがあるのか、ということを常に警戒し、疑問を抱き続けなければいけないのではないかと思う。

実は、私の亡くなった父は天文学者だった、私は者心ついたころから「宇宙の果て」はどうなっているの?というおそらく誰もが不思議に思うであろうことを父に質問していた。小学生の時に聞いた答えは、“ブリキのバケツの外側を歩いている蟻をみて、この蟻はいくら歩いてもバケツの果てに到達できないだろう?我々が宇宙の果てを目指すとそんな風になるんだよ”。と言われたと記憶している。そういわれても、その時はよくわからないので一旦保留である。一旦というのがどれくらいかというと、大体2~3年で、“この間のバケツ上の蟻のことだけど…”と話し始めると父はその先の説明をまたしてくれた。 またしばらく経つと”この間言っていた空間が負の曲率をもって歪んでいる宇宙の場合だけど..”。質問の内容は少しずつ進化してはいたけれど、結局、独立して家を出るまでの20年間考え続けても宇宙の果てがどうなっているのか父と対等に議論できる程に理解できるようにはならなかった。
一方、私は、「医者は金もうけばっかりして生命の神秘に迫っておらん」、という父の口癖の影響をうけたせいか、医学の道に進み、生命が物質に代わる境界のところがどうなっているのかを知るべく、細胞死の研究と実験を繰り返して今に至っている。私が天文学を理解できないように、父も私が行う細胞死の実験を100%理解できなかったはずであるが、私が科学的な宇宙の果ての解釈があると信じ、父が生物と無生物の境界の問題に私が取り組んでいる思っていたのは、父と娘のお互いが科学者として科学に対して誠実に努めているのだからおそらくまちがいはないであろうという、人格への信頼によるものであって、正直に言って科学的にお互いを納得させることができたからではない。偉い先生の言うことだから多分正しいだろう、というのは科学の世界では一番やってはいけない納得の仕方だということは百も承知なのだが、ではこの際限なく専門性の高くなった科学の分野で広い世界の隅々まで科学的に理解できることなんてあるだろうか。宇宙の始まりがビッグバンだという人は、”光あれ”という主の言葉で世界はできたという人より科学的か?ドラえもんは生物か、という中学受験の問題に迷いなく答えた小学生は生命現象の不可思議さをどれだけ理解しているのだろうか。

ここから先は

841字

¥ 500

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?