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まゆりとルッチとしいちゃん的日常⑦ 寒い日はみんな一緒に


犬を飼っている友人から、しいちゃんはどこで寝てるの?と聞かれたことが何度かあった。
その度に“どこだろう?”と答えに詰まってしまう。犬を飼うなら寝床をまず作ってあげるけど、猫は好きな時に好きな場所で好きなだけ寝ている。どこでも寝るからあえてどこで寝なさいとは言っていない。最近は、しいちゃんは私の隣にしいちゃん用のお布団を敷いてそこで寝ていることが多いけど、いつもいるとは限らない。
それでも、しいちゃんが仔猫の時は、教科書通りにケージに入れて寝かせていた。ルールが狂い始めたのはしいちゃんが去勢手術を受けた後からだ。
ネコの去勢手術は日帰りでできる。夕方、迎えに行くと麻酔から覚めたばかりのしいちゃんはいたく興奮していた。抱っこしようとすると“シャァー”といって怒った。私は悲しかった。
ペットを飼うならば、去勢避妊手術を受けさせて、無暗に繁殖することを防ぐのは飼い主の義務である、という理念はわかる。しかし、わかるからといって、可愛いしいちゃんに有無を言わせず去勢手術を施すことに胸が痛まないわけではない。「ペット飼うなら手術が必要」なのは正しいかもしれないけれど、善悪の本質はむしろ「ペットを飼う」こと、人間が他の種の命を所有することの是非にあるのではないだろうか。人が自分の慰めのために命を所有して完全に自分の管理下に置くなど間違いなく傲慢な行為である。でも、そこから正そうとすれば、我々は多分一万年ぐらい人類の歴史を遡って自然との関係を構築しなおさなければならないだろう。それができないから、我々は誤った前提の上に、人間だけにしか通用しない倫理的なルールを構築してそれを他の生物に押し付けている。今、シャアーといって怒っているしいちゃんはその具体的な犠牲者であり、私は矛盾だらけの加害者だった。それが自分でもどうしようもなく悲しいのだった。
カルテを覗くと、ケタミンが麻酔に使われたようだった。呼吸抑制が弱く切れがいいので動物の手術にはむいているのだろう。かつては実験室でもよくつかわれたようだが、最近は管理が厳しくなったのであまりつかわれなくなった。幻覚作用があり、人の場合は麻酔から覚めるときに悪夢を見るといわれているはずだ。
家に帰ると、しいちゃんはフラフラした足取りであるにもかかわらず、家の中をパトロールしてまわった。私はそれにつきあって、危なそうなものを全部取り除いていった。そして、何とかしいちゃんに落ち着いてもらえるように、ゆっくり、何度もしいちゃんの背中を撫でた。しいちゃんが、やっとクッションの上でうとうとし始めたときには、もう夜も更けていた。私もすっかりくたびれて、しいちゃんが寝たのを確認すると自分も布団に入った。
ところが、しばらくして暗がりの中を何かがやってくる気配がする。しいちゃんがよろよろとこちらへやってきて、私の体に自分の体をぴったりつけて、うずくまった。
しいちゃんは怖かったのだ。唯一信頼できるはずの私に知らないところへ連れていかれ、怖い夢を見て、自分でも制御できないほど興奮して、すごくすごく、怖かったのだ。それでも頼れるのは私しかいなくて、側についていてほしくて、こうしてやって来たのだ。
「しいちゃん…ごめん…」
私たちはその晩お互いの温度を感じながら、寄り添って眠った。
翌日、しいちゃんは大分元気になっていたが、パラボラアンテナのようなエリザベスカラーを巻いていたので、事故が起こらないよう、私は一日しいちゃんを観察しながら過ごした。
案に相違して、しいちゃんはバックオーライなどの新しい技を披露して私を和ませてくれ、ご飯を食べにくそうにしていたので、手から直接あげると、もういつもの甘えん坊のしいちゃんに戻っていた。これなら目を離しても大丈夫、とシャワーを浴びながら私は思っていた。明日はお留守番させて仕事に出てもいいだろう。お風呂から上がると、なぜかしいちゃんが私の布団の真ん中にちょこんと座っていた。
「コレカラ、ココデ寝ルンデショ?」
僕、知ってるよ、とでも言いたげにしいちゃんは丸い目をくりくりさせて私を見上げていた。
「う…ん。…ま、いいか…」
ということで、それ以来しいちゃんはうち中のどこでも好きなところで寝ていいことになった。

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