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まゆりとルッチとしいちゃん的日常④100万回生きた猫は...


佐野洋子の絵本に「100万回いきたねこ」というのがある。
立派な縞の雄ネコが様々な飼い主といろんな境遇を生きる。ある時は王様のねこだったり、ある時は泥棒のねこだったり、戦場にうまれたり。100万回も生きたある時、このネコが野良猫としてうまれてくる。そして雌のしろねこと出会って恋に落ち、家族を作り、しろねこに先立たれてしまねこは涙が枯れるまで泣きつづける。その後はもう縞のねこは生まれてくることがなかった、というはなしだ。
ねこはどうして100万回もいきたのだろう。そして、どうしてもう生まれ変わらなくなってしまったんだろう。

しいちゃんがうちに来てから一年がたち、しいちゃんは無事に体重4.2キロという体格だけは立派な成猫になった。性格は仔猫のような甘えん坊のままだけど、私が病気になると添い寝してくれたり、お気に入りのおもちゃを「お見舞い」に持ってきてくれたりする気遣いもできる優しい子に育ってくれた。しいちゃんは、私が仕事から帰る時間になると玄関まで出てきて帰りを待っていてくれる。いじらしくって、可愛いけれど、しいちゃんは昼間ひとりで寂しい思いをしているんじゃないか、ということがだんだん気になるようになった。それに、何よりしいちゃんが妹分あるいは弟分の仔猫とけんかしながら譲り合って成長していく姿を見てみたいと強く思うようになった。

しかし、踏み切れない理由もある。
もし、いま二匹の猫を飼うことになったら、二匹のうちどちらか一方はもう一方と死別する悲しみを味わうことになるだろう。しいちゃんを一匹だけで飼うのであれば、ネコと人間の一般的な寿命から考えて私がしいちゃんより先に死ぬ可能性は低い。しいちゃんは自分の大事な人の死を経験することなく、この世から先にいなくなることだろう。それは私にとってはとてもつらいことかもしれないが、私一人が絶えれば済むことでもある。しかし、もう一匹ネコがいて、しいちゃんかそのネコが死んだときに、同朋の死を悼むペットの姿を見ながら、私はペットを失った悲しみに耐えられるだろうか。
しいちゃんは一匹だけで飼われていたならば、生き物には命に限りがあるということを知らずに済むだろう。自分の命に限りがあるということすら知らずに一生を終えられるかもしれない。それはある意味でもっとも幸福なペットの特権であるだろう。自分の命には限りがあるということ、あらゆる生きとし生けるものは脈々と続く生命の歴史の一部を、ほんの一部分をその命がつないでいるのだということを知ること、生物の社会性とは命の限りを知ることから生まれるものなのかもしれない。愛するものと死に別れる悲しみを知ることと引き換えに、愛するものと生きる喜びを与えるべきなのか、悲しみから隔離して安穏とした幸福のうちに一生を過ごさせるのか、どちらがしいちゃんの幸福につながるのだろうか。

100万回生きた猫はしろねこに先立たれてからなぜ生まれ変わらなくなったのか。愛する者に先立たれる悲しみはもう二度と生きる気力を持てなくなるほど辛く苦しいものなのか。それとも、これ以上素晴らしい生涯はないという満足と幸福が100万回よみがえるというネコの業を終わりにさせたのか。
私にはよくわからない。

しいちゃんが生きることが楽しくて、また生まれて来たーいと軽いのりで何度も生まれ変わってくれるなら、それも悪くない。でも、この世でまだ与えてあげられる喜びがあるなら、失うことだけを恐れずに与えてあげたい、とも思う。
飼い主の悩みは深い。


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