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まゆりとルッチとしいちゃん的日常③ しいちゃん危機一髪


クワックワッと聞いたことのない音がしてびっくりして駆けつけると、しいちゃんが怪しげなものを嘔吐していた。びっくりした。ネコが嘔吐するところを初めて見たことももちろんだけれど、吐しゃ物がとにかく異様だったのだ。実は私はかつて小児科医として研修をうけている。赤でも茶でも緑でも、生き物が嘔吐しうるものであればちょっとぐらい変な色をしていてもそれほど動揺することはなかったとおもうのだが、しいちゃんの嘔吐したそれはおよそ生理的に体の中から出てくるものの色ではなかったのだ。何なのだこのへんてこな吐しゃ物は…
落ち着け、落ち着け…と自分に言い聞かせながらよく観察しているうちに、この明らかに人工的な色味に見覚えがあるような気がしてきた。そういえば、電気のコードをしいちゃんが齧ったりしない様に、前の日に床にパネル状のソフトマットを敷いたのだ。そのマットが何枚か余ったのでそれでしいちゃんにトンネルを作ったり迷路を作ってあげたりしたのだが、その時しいちゃんがはしゃいで隅っこを引っかいたり齧ったりしていた、それを私の知らないうちに飲み込んでしまっていたらしい。
小児科の救急外来にはの誤飲誤嚥事故は結構やってくる。対応は飲み込んだものや時間によって変わる。薬やボタン電池のような吸収されると害になるものは一刻も早く取り出した方がいいので、内視鏡を使ったり、胃洗浄で吐かせたりする。そうでないものは基本的には放っておいても便として排泄されてしまう。
しいちゃんの場合は、異食はしたけれど自分で吐いてしまったのだから、この場合は経過を観察すればいいはずだ。…と小児科医としての理性は言っている。だから落ち着け、落ち着け、と何度も自分に言い聞かせたけれど、身内のトラブル、特にこんなに小さな仔猫のトラブルにやっぱり平静は保てるものではない。しばらく様子を見た挙句、最悪なことに閉院間際になって我慢できずにかかりつけの獣医さんに電話してしまった。当然のことながら、ここまで様子を見て何もなかったのだから、そのまま様子を見るように、心配だったら夜間救急センターを受診するように指示された。
一般に、人間の不安は日が暮れると強くなる。私は半日近くしいちゃんの様子を観察していたが、変わらないと言えば変わらない、元気がないと言えばいつもより元気がないように見える。夕方までは理性でなんとか耐えていたものの、あたりが暗くなってくると不安な気持ちがどんどん勝ってきた。最悪中の最悪だ。そうやって中途半端な時間帯に当直医を起こす患者を何人診てきたことか。でも...でも...もう我慢できなーい!
夜間救急動物病院に電話をし事情を話すと、獣医さんは優しく連れてきてくださいと言ってくださった。私は受話器を握ったまま電話に向かって何度も頭を下げ、しいちゃんをキャリーに入れ、車に飛び乗った。
最近の獣医学の進歩に暗い私は、救急動物病院でどんな治療を受けられるのかほとんど予想がつかなかった。まさか、いきなり開腹手術はすまいと思うが、だったらどんな方法があるのか、入院されられてしまうのか、不安は雪だるま式に大きくなっていく。口を開けたら私の方が「不安の塊」を嘔吐しそうになるころ、到着した動物病院は清潔感のある立派な病院で小ぶりの人間の総合病院のようだった。受付の方も親切で、対応してくださった獣医さんも時間外であるにも関わらず、嫌がる様子もなく丁寧に診察室に招き入れてくださり、それだけでネコの新米ママは救われ「不安の塊」は少し小さくなっていく。まずは腸閉塞がないか、レントゲンと超音波で見てみましょうということになった。当然と言えば当然の処置だけど、どの検査が動物に応用できてどの検査が人間特有なのかを知れない私は、動物用の立派な超音波検査装置を目にして初めて、その手があったか…と目から鱗が落ちるようであった。
しいちゃんを残して待合室に退くと、検査室からシャーっというしいちゃんの声と小さく「イテッ」という獣医さんの声が聞こえた。私は心の中で、しいちゃんの無事を神様に祈り、獣医さんへのしいちゃんの非礼と私の日頃の不信心を心から詫び、マットでお遊びをした自分の迂闊さを激しく後悔し、かつて自分が夜間救急で出会ったお母さんたちへの配慮の不足を反省し、全部まとめてもう一度神様にお詫びをしながらしいちゃんを助けてくださるように手を合わせた。
再び診察室に入るとそこには、縦にみょーんと伸ばされた、笑っちゃうぐらい小さなしいちゃんのレントゲン写真がかけてあり、超音波でも腸閉塞消化管壊死の所見はないということで、手術は不要、晴れて無罪放免ということになった。よかった、本当によかった。私は思わず涙目になって先生に感謝し、受付の方にも深々とお礼をし、駐車場にいた守衛さんにも頭を下げ、思いつく限りの神様にお礼を申し上げ、病院を後にした。
真っすぐに伸びた国道に出て、単調に流れる対向車のヘッドライトを視界の端で追っているうちに、私はやっとこの日一日の緊張から解放され行くのを感じた。時間は10時を回っていただろうか。やけに長い一日であった。ふうっとため息をついて、誰に言うともなく「しいちゃん、疲れたね」と私はつぶやいた。すると…!
それまでキャリーのなかで神妙にしていたしいちゃんがミャーミャーと突然愚痴りだしたのである。
「ホントダヨ、ボクモツカレチャッタヨ…。アイツネ、酷ンダヨ、網デネ僕ノコトグルグル巻ニシヨウトシタノ。ボク、ヤダッテイッタンダヨ。ナノニオナカノ毛モ刈ラレチャッテサ。見テヨ、ホラ、コンナ虎刈リ、カッコワルイッタラ….。ネエ、今度アッタラ、アイツノコト、ヒッカイテモイイ?」
「だめだよ」
「ボク、ナンダカオナカスイチャッタ。マユリハ何ガ食ベタイ?カエッタラ、ボクニチュールヲ頂戴ネ…」
これだけ饒舌なら大丈夫だな、と私は笑いがこみあげてくるのを抑えられなかった。母というのはこうやって強くなって行くんだな….。
ソフトマットのかけらは翌朝うんちと共に排泄され、この件は無事落着したのだった。


ソフトマットはまずかった。

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