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まゆりとルッチとしいちゃん的日常⑨ しいちゃんとドーベルマン

医学部の6年生の時、泌尿器科の臨床実習でとても怖い患者さんの担当になったことがある。
長く透析治療を受けてきてついに腎臓がんになり、手術するために入院していらっしゃる方だった。
現役時代は大きな会社の重役だったそうで、病人とは言え堂々たる態度と物言いで貫禄があった。男性に多いような気がするのだが、こういう社会的な地位が高い人、あるいは非常にintelligenceが高い人の中には、病気になった弱い自分、誰かの助けを受けなければ生きていけない自分の状態を、上手く受け入れられない人がいる。私の父もそうだったが、平たく言うと甘え下手なのだ。治療法の話しを医師としていても、例えばMRIとは何の略語なのか、答えられないとそんなことも知らないで検査するのか、とか本筋とは関係のないところで医師の上げ足をとったり、こんな若造に俺の手術ができるのかという敵意をむき出しにして、何とか病院のなかでも自分の威厳を保ちたいのだ。いままで社会で尊敬されてきた人、重要人物と大事にされてきた人が、いきなりただの病人として命の重さはみんな同じ、平等ですよ、といわれたらそれはアイデンティティもゆらぐであろう。だからこういう方にはお金を持っているから、偉い人だからではなくもっとデリケートな意味でその方の人生を尊重する態度で接する必要があるのだ。とはいっても、若い男の先生とは衝突しちゃうことがままあるので、多分丁度いいから若い女子学生をおもりに着けとけというような配慮で私が担当になったのではないかと思う。手術前の説明に同席したときは一触即発といった緊張した雰囲気にわたしもかなりビビったけれど、こういう方は生意気な若造に弱みをみせるのが嫌なので合って、明らかに目下の人や私のように毎日決まった時間にきちんと所見を取りに来る真面目な女子医学生には意外と優しかった。わたしのちょっと危なっかしい診察も嫌がらずに協力して下さった。毎日所見を取りに行くと、だんだんその人の人となりや私生活の様子などもわかってくるのだが、当初の予想をはるかに上回る大会社の重役さんだったらしく、白亜の豪邸にドーベルマンを2頭飼っていて庭を走らせているのだそうだ。そんな家 “007” の映画の中でしか見たことないけど、きっとすごく苦労してすごく成功してきたひとだったんだろう。
手術で入院する場合、オペ室に直行するような緊急入院もあるけれど、普通は何日か前に入院してCTやMRIをとったり直前の状態をなるべく開腹前に正確に把握しようとする。この方も手術の5日ほど前に入院していて、その間私が毎日所見を取りに伺っていたのだが、手術の前日に様子を見に伺うと、いつもの冷静な様子と少し違っていた。
「何か、ご不安があるんですか」
と、私が訪ねると、堰を切ったようにほろほろと涙を流しながら「犬たちが帰りを待ってると思うとかわいそうで…」とおっしゃるのである。
私はあっけにとられてしまった。ものすごくプライドの高い、気の強いおじさん、大金持ちで白亜の豪邸に住んで庭には侵入者あらば食い殺さんばかりのドーベルマンが2匹。…で、そのおじさんが息子のようにかわいがっている犬が寂しがっていると思うとかわいそうで…と目の前で号泣している。そんな状況、即座に一つのイメージにまとめて何かかける言葉を見つけられるだろうか。人生経験の浅い私にはこんなひっちゃかめっちゃかの状態で患者さんの気持ちに沿うことなど到底できなかった。あの時、患者さんになんと慰めの言葉をかけたか、もう覚えていない。しどろもどろで慰めになってなかったからだろう。
でも、あの患者さんのことは折に触れて時々思い出す。特にしいちゃんとルチアと一緒に暮らし始めてからは申し訳なかったという後悔の念とともに思い出す。
だってもし、私が入院することになったらしいちゃんはどう思うだろう…
「まゆりは何できょうかえってこないの….」
「まゆりは今日もまたかえってこないの…?」
「まゆり、僕のことが嫌いになっちゃったのかなあ…」
「まゆり、元気にしてるの…?」
「まゆりは僕が添い寝してあげないと眠れないんだよ。まゆりちゃんと寝てるの…?」
「まゆり、いつかえってきてくれるの…?」
一方ルチアは空気を読まないマイペースネコだからしいちゃんの不安に拍車をかけるに違いない。
「しいちゃん、しいちゃん、まゆり昨日帰ってこなかったのに今日も帰ってこないの?」
「しいちゃん、しいちゃん、まゆりあたしたちのこと嫌いになっちゃったのかなあ….」
「しいちゃん、しいちゃん、今度いつまゆりに会える?」
「しいちゃん、しいちゃん、あたしまゆりにあいたいよお…」
…書いているだに切なくて、涙が出てきてしまう。
ドーベルマンの見た目がどんなにいかつくてもきっと考えていたことは同じ、「お父さんいつ帰ってきてくれるんだろう」「お父さんとまたお散歩にいきたいなあ」「お父さん、元気でまたあえるよねえ…」
飼い主にとって心のつながったペットはみんな忠犬ハチ公以上の忠犬、名猫なのだ。その愛するこたちが何でだろう、何で帰ってこないんだろう、と不安におもっているのに、大丈夫だよ、と抱きしめてあげられない辛さを、たかがペットと軽んじてはいけないのだ。あのとき、あの患者さんと一緒に泣いてあげればよかった、お辛いですよね、でもきっとワンちゃんたち信じて待っててくれてますよ、って背中をさすって差し上げればよかった。
私の学生時代の後悔の1つである。


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