たあへる・あなとみあ あるいは酒でいっぱいのパプリカ

と、いうわけで読むのがひたすら苦痛な中再度読み勧めた墨東公安委員会氏の日記。(view数稼がせるのもアレなので魚拓)

 まあ、再度読んでも最初の感想と変わらないわけですが、この前はつるつる大脳皮質の表面をすべって行った文章をなんとか言ってる内容を噛み砕いてみたのだけど、まー、苦痛!
 苦痛なのは、別に異意見者の意見だからってことじゃないんですよ。
 まず、とにかく文章構成が変。最初からして、「自分は表現規制派ではない云々」と書いたと思ったら、歴史修正主義(本来の意味の方)の話が始まる。反論に表現の自由を行使するからだということらしいのだが、「そんなこた誰も聞いてない」のである。
 続きもこんな調子で、専門外のことの考察が続くのだが、専門外なので学問的知見が反映されてるわけではない。要はただの「個人の感想」なのだが、箔付けのつもりか書籍を引用したり他人の言葉を引用したりするのだが、ようは「単に自分の頭の中をそのまま開陳して羅列しつづけてるだけ」なのだ。
 整理のついてない他人の頭の中を見せつけられることの苦痛たるや。

 その迷走の最たるものは、当の記事のタイトルになっている「チンドン屋」の下りについてである。このチンドン屋というのは中島らもの著作からの引用だが、これは自身も広告代理店勤務だった中島が、虚業である広告代理店を自虐的批判的に指してのものだ。
 だがそれが何故、オタクに当てはめられるのか。墨島氏は「作品が好きなのではなく広告活動が好きなのです」と断言するが、当然ながらそこには何の論理的帰結もない。
 そこにあるのは、オタク論客への憎悪と、偏見と、歪んだ自己正当化の理論だけである。
 それを自らの頭の中を見せつけることで開陳したにすぎない。望んでもいないのに仕方なしに他人の腑分けを覗かざるをえない気分である。
 今敏監督の「パプリカ」、パプリカが入り込んだ夢の中の百鬼夜行を百億倍グロテスクにしたものを見せつけられた気分だ。

その後は気に入らないオタク(墨東氏が「表現の自由戦士」とくくる)による発信を全て「歪んだ宣伝行為」と定義づけることで、その全てを否定する。
 赤松氏についても、作品までくさして「ひとつきほど熱心に読んでたがある時『ああ、女神さま!』じゃねと気づいてアンチになった」(大意)って書いてるんだけど、「いや、気づくの遅くね!?」である。(墨東氏はそのハンドルでも判断できる(「逮捕しちゃうぞ!」が元)ように藤島氏のファンのはずである)

 なんだかんだ個人的ないちゃもんの連続である。
 結局のところ、言ってることはこのことにすぎない。

豚の嘶きは表現ではありません

 だが、表現とは広辞苑によれば「心的状態・過程または性格・志向・意味など総じて精神的・主体的なものを、外面的・感性的形象として表すこと。」とある。
 墨島氏がいかに他者の言説を「歪んだ宣伝行為」と罵倒しようが、その定義を一毫とて侵食できるものではない。それこそ、長い長い「豚の嘶き」にすぎない。
 だからといって、墨島氏のそれとて表現である以上保護されざるべきとは思わない。価値があるか否かはともかく。

 また、このような話もある。

 墨東氏は他者の歪みを幻視する前に、まず自身の歪みに向き合うべきではなかろうか。


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