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かばん2023.12月号評

12月号掲載の歌からいくつかの歌について評(感想)を書きました。
12月は特別号で全員8首。深みのある作品が多かったなぁという印象です。

われらみな『ドリアン・グレイの肖像』を屋根裏部屋に隠しつつ老ゆ  遠野瑞香
『ドリアン・グレイの肖像』を知らなかったのですが、ネットで検索するとあらすじが読めました。東洋的にいうと閻魔帳みたいな感じ。悪行は善行で帳消しにはならず、すべて記載されている。「われらみな」は使うのが難しい言葉ですが、納得です。
 
蠟梅が咲きたるという人の声油色する花かおり発(た)つ  江草義勝
蝋梅が咲いたと小耳にはさんだとたん、ここにはない香りが漂ってくるようです。記憶の再生というよりは空間のショートカットという感覚。蝋梅を思った瞬間を「かおり発(た)つ」とし、一瞬にして届いた感じがします。
 
「万が一舟から落ちたら慌てずに立ってください背は届きます」  雨宮司
屋形舟の船頭さんからの注意事項。新聞の見出しなどでも、「あ、これ。五七五・・・」と気がつく時がある。歌詠みあるあるだな、と思う。お、これは!と気づいてにやりとしたんだろうな。小旅行の連作の中にこの一首があってほほえましい。
 
匿名のまま文字列に救われることを夢見てインターネット  島坂準一
同じ12月号に出した私の歌と響き合っているのでは!(と、僭越ながら思いました。) 『文字列も声もたしかにそれとなく北を指さすわたしの在りか』雛河麦。「文字列に救われる」ことはあると思います。なぜなら・・・、というのが私の歌のような気がします。
 
私史上はじめて今日という朝のはつか眩しいカーテン開ける  山内昌人
今日という日は毎日、私史上はじめてなのだ、とあらためて気づかされました。その毎朝の光を「はつか眩しい」と表現されていて、同じように見えても実は違う一日を大切に過ごそうとされている様子がうかがえます。「はつか眩しい」という音の並びが「はずかしい」に通じているように感じ、カーテンを開けるのは世界にとっても自分にとっても少し気恥ずかしい出会いのような気がしてきました。
 
包帯を急いで巻いたようなウソ 優しさだからほどきはしない  田中真司
一字空けは短い沈黙のような気がします。「ウソ」を見抜いて「優しさ」へ変換するまでがこんなにも短くて悲しくなる。隠すことのできないウソ、治癒に至らない包帯の巻き方、とても痛々しい。ウソをそのままにしておくことが精いっぱいの「優しさ」なのでしょう。
 
厳島神社の鳥居もまだこんなちっちゃであなたを産んだあの夜  土井礼一郎
神社が半ば擬人化されていて、こういうゲーム(刀剣乱舞みたいな)があったらいいのになぁと妄想が走り出してしまいました。ここでいう「あなた」は誰なのか、産んだと言っているのは何者か、いろいろと想像するのが楽しい歌。
 
病んだ箇所を炎というときより強く身体を自分のものと思うよ  湯島はじめ
怪我をした箇所や病による痛みは、まるでそこが心臓であるかのようにドクドクと脈打つ。「炎」とはどこか今の自分に異を唱える反乱分子のようです。炎と自分が和解していく過程が治癒なのかもしれない。あらためて出会う身体を抱きしめているような歌だと思います。
 
舞台そでで桜は静かに見つめてる白鳥たちの真冬のワルツ  ミラサカクジラ
桜が出番待ちをしている。主役ともてはやされることの多い桜だけれど、ちゃんと時をわきまえている。その自然の謙虚さに静かに描いていて美しい。
 
クリスマス限定コフレ二年後も手つかずの赤されどディオール  有田里絵
あぁ、これは分かります。クリスマス限定のきらびやなコフレは手にするだけで気分が上がります。ブランドものだとよけいにそうかも。でも、結果的に使わないというか、使えないものもあります。買う時はつい自分の顔を忘れてしまうので。
 
天窓を開けても去らない青春の背中を押して帰っていただく  石田郁男
11月号では、同じ作者の「あばら家の天窓を開けて真夜中のミルキーウェーに来ていただいた」という歌を引かせていただいたのですが。今回は「帰っていただく」んですね。なかなか諦めないのが青春だから大変かも。ずっと一緒にいてはダメなんですか?
 
スロット屋の自動ドア遠くひらく時ざあざあ降りと思う一瞬  とみいえひろこ
「スロット屋」って言うのですね、もうパチンコ屋じゃないんだ。あの自動ドアが開いたわずかな時間、別の世界への入口が開いたような気になります。あちらは煌びやかな「ざあざあ降り」。でもすぐに閉じてしまう。
 
力瘤見せるセピアの写真には小さきメモあり「僕、力道山」  野川忍
こう書いたのは「僕」ではなくて、両親のどちらかなんだろうな。一見してそれと分かる文字で、きっと少し若い。
 
じっさいに見る花よりもうっすらと記憶している花がきれいで  夏山栞
多分、花も人もリアルなものは美しくない。自分によって都合よく取捨選択したイメージはほどよく角丸めされて色調もぼかされている。思い出はなるべく自分にやさしく。防衛本能のなせる技なのだと思う。。
 
山鳩が窓のそばにきて鳴いている説教されてしぶしぶ起きる  ユノこずえ
山鳩との対話を想像すると楽しい。けれどせつない。家族が減っていけば自分に説教してくれる存在はいなくなる。その存在をいつか私も求め、さまざまな生き物の声を聞くようになるのだと思いました。
 
四半世紀もたてばさすがにほどけて水平線 淡いまぼろし  吉野リリカ
からまった糸を左右から引っ張りと、すーっと一本の糸になる。力をぬいた”すーっと”という感覚が「四半世紀」という時間なのだと納得できる。激しい感情も時間とともに淡く溶け込んでいく。「水平線」という言葉から、まるで地球に溶け込んでいくかのように感じました。
 
大海原の揺れてかえして薬指に握る吊り革の匂いは  井辻朱美
目を閉じれば、電車の揺れは「大海原」を旅する小舟のよう。その舟の感覚も消えて海の上、つり革だけを握っているような感覚になりました。薬指とあるので、そんなに力をこめてに握っているわけでなく、揺れにまかせてゆらゆらしているような感じがします。
 
正規兵非正規兵と分けられて配置に着きし三角コーン  松澤もる
「三角コーン」の世界にも正規と非正規があるとは世知辛い。きっと前線に配置されるのが非正規なんでしょう。
 
悪意あるいたずら注意の貼紙が何もなかった駅のトイレに  小野とし也
「悪意あるいたずら」があったことをあえて知らせる、それこそが「悪意」なんじゃないの? という主張が感じられます。その貼紙一枚にその場を支配されることがちょっと許せない。
 
キッチンで干しイチジクを齧っている思い出を思い出すことをわすれ   沢茱萸
「キッチンで干しイチジクを齧っている思い出を思い出すことをわすれ」「キッチンで干しイチジクを齧っている」というようなループするような感覚になりました。干しイチジクの噛み応え、味覚への集中は思い出よりも鮮烈なのだと納得しました。
 
草原を駆ける馬のかたちして水溜まり我に襲いかかり来る   ちば湯
水はねが襲いかかってくる瞬間とらえた表現がいいな、と思いました。襲いかかってくるものだけど、水はねを恐ろしいものではなく、美しいものとして描かれている点がいい。
 
歩けなくなった母には父がいて冬の強さで燃えるストーブ  みおうたかふみ
電気ストーブではなく、薪ストーブを思い浮かべました。「冬の強さで」に、揺るがない愛情と意志を感じます。
 
踊る人の裾から覗く腰椎に三十八億年が波打つ  伊藤汰玖
生命誕生から三十八億年、二本足歩行を始めた生物は今やこんなにくねくね踊ることもできる生物に進化したんだなぁ、という感動ポイントが面白いです。
 
木曜の夜からピンクの尾が伸びて裾野のように開く週末  柳谷あゆみ
ひと昔前には「花金」という言葉もありました。それよりも一日はやい木曜日の夜からすでに週末の過ごし方をイメージしているようです。「ピンクの尾」が艶めかしくて雅です。
 
あのひとと○あの日から日め○くりをして○夢中になって○五年と満月  藤本玲未
短歌のリズムに合わせて配置された満月は、節目節目で感じた満ち足りた時間だったのでしょう。欠けていく時期があってもその後必ず満ちてきたという実績を誇らしくありがたく感じている様子が伝わってきます。
 
一反もめんジュニアの墓場みたいだな整理しきれず溜まるレシート  深海泰史
確かに。「一反もめんジュニア」っていうネーミングが面白いです。
 
抜け殻は蝉のかたちのままで在る庭の酢橘の葉の裏側に  大黒千加
『父の酢橘』と題された連作の一首目。2首目から5首目まで、父と酢橘の歴史が語られれる。そうして現れる6首目、「ひとつづつ まうひとつづつ 出来ぬこと増えてこどもに戻るか人は」の「こども」を目にした時、一首目の抜け殻が意味を持ってくるように感じました。「酢橘」は「巣立ち」。父のこども時分の抜け殻がそこにあるようです。そして、老いた父にいつか訪れる巣立ちの時もやはり抜け殻を置いていってくれるのではないか、という想像をさせ、せつなくなりました。
 
暗いから電気を点けた眩しくて電気を消したそれだけだった  来栖啓斗
色でいうところの白か黒かではなく、もっと細かなグラデーションのなかに自分の求めるものがある。しかし、この色のグラデーションを100段階にしたとしても、作者の求めるものはもっと微細ではないだろうか。電気を点けたり消したりする音に、(違うんだよなぁ)という諦めが漂ってます。
 
あんさんはうちらの未来の人ですねんと教えてくれたUFOの人  前田宏
関西弁の面白さに惑わされますが、これってどういうこと? 「あんさん」だけが「うちらの未来の人」なのかなぁ。「うちら」ということは、いつかの先祖が夫婦でやってきたんかなぁ。
 
祖父なりの絶好調でぱりぱりと浅漬けを噛む音が明るい  茂泉朋子
「ぱりぱりと浅漬けを噛む」・・・なんかそれなりに圧を感じる祖父を想像しました。「明るい」とは逆に、少しうんざしている家族の顔が思い浮かびます。
 
廃番のねむり薬で夢をみる うつくしかった五輪憲章  小野田光
マッチ売りの少女のマッチみたい。夢が見られたマッチはもうないんですね。
 
使えなくなった魔法を閉じ込める ギンガムチェックの交わるところ  土居文恵
ギンガムチェックをずーっと拡大していくと鉄格子みたい。使えなくなった役立たずは牢屋に入れて罰をあたえるのですね。
 
わたくしがだれかに言った冗談の半分に人形ご機嫌斜め  杉山モナミ
ハッとするような歌。普段から仲良くしている人形なんだろうな。(そんなこと言うあなたのこと、嫌いになるかも)と言われているような気がしてドキッ。冗談に意識的に毒を混ぜたのは本当だったから。
 
ゆづれない欲望抱へ個を生きるわれらに遠き未踏の星座  嶋田恵一
「個を生きるわれら」それぞれが1つの星であり、便宜上または惹かれ合うなどして同盟のような星座を作る。星座も中でも平和を保つのは大変で、気がつくと視野は狭く自分のことばかり考えているなぁと改めて思いました。「遠き未踏の星座」は国を指しているようでもあり、連作のタイトルを含む一首目「まぼろしの傷痍軍人辻に立ち戦なき世は来たかと問ひぬ」の問いかけが重く響いてきました。
 
絵のなかに乳房はずつと晒されてどんな気持ちで眠るのだらう  森山緋紗
 価値観について考えさせられた歌。確かにこのように私も感じるのだが、実際のモデルと画家の関係は従属を強いるようなものではなく、ドライで対等なものだったかもしれないし、美しい体を絵にとどめ、人々に見られることを誇りとしていたかもしれない。しかし、実際のモデル女性の真意はすでに失われ、絵は絵として、それを見た人の価値観で如何ようにも変化するものとなる。タイトル「礼拝堂」を含む2首目には、また異なった価値観がある。「空港の礼拝室に顔のないピクトグラムの祈りはしづか」。ムスリムの人々から見れば、まったくもって許しがたい絵になるのではないだろうか。
 

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