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かばん2023.8月号評

8月号掲載の歌からいくつかの歌について評(感想)を書きました。
かばんの前号評は2月後、10月号に掲載されるので、発行されたら執筆された方々の評と比べてみようと思います。
 
◆特別作品から
 
おやつ待ちおすわりをするまだ何も言ってないのにお手もしている   あまねそう(Type F)
この歌のひとつ前に犬が出てきて、犬のことを言っているようで人間のことを言っているようなところがいいな、と思いました。配置の妙というか。当たり前のようにおやつタイムになると席に着く人が我が家に居りまして、その圧に比べるとお手の方がかわいいと思いました。ところで、あまねそうさんの筆名の(Type F)って?
 
わっしょいが聞こえて辻で振り向けばタワマンの角に神輿現る   Akira
都会の祭りってこんな感じなんだ、と動画を見ているような連作『神田祭り二〇二三』。掛け声も「わっしょい」なんだ、と新鮮な驚きがあります。振り向けばタワマン、すごいなー。人工的な建物と人のエネルギーがうねる様子が対照的でありながら調和していて面白い歌だと思いました。
 
藤棚のような湯気だけ身にまとう滅びるものが美しいから   青木俊介
藤は垂れ下がるもの、湯気は立ち上るもの。正反対でありながらも瞬間を切り取れば、身から発せられる湯気は藤棚となる。まるで浮世絵のように感じられました。背景は赤としました。
 
◆会員作品から
 
西日照るブロック塀を這いまわる蜥蜴背すじをくの字に曲げる   江草義勝
下の句が印象に残りました。「くの字に曲げる」ということは右か左かに曲がるのでしょう。連作の前半で母がいない日々へと生活が変化したことが分かります。方向を変える時、まずは体がそのように動くのですね。頭ではなく体が、ということに気づかれた歌でとても重要な歌だと思いました。。
 
中途覚醒の夜すがら黙々と江戸の古地図をあてなくたどる   佐藤元紀
眠れぬままに古地図のなかの江戸を歩かせている、いや歩いている。暗闇のなかで2つの時間を歩いているような、どことなく境界があいまいで足元が危ういような不安が漂います。
 
予測不可なりて彩なす転調の日々ならばその律に従う   山内昌人
「彩なす転調の日々」に幸運の予感があります。「その律に従う」がかっこいいです。
 
キラキラな夜景の手ぶれ写真めく出会いによって見つけたい君   屋上エデン
「キラキラな夜景の手ぶれ写真めく」という表現が素敵です、オーラの残像が見えるとしたらこんな感じかも、と具体的に想像できました。
 
見えなくて無いことにされてきたものよ 風は稲穂を倒さうとする   森山緋紗
虐げられた立場の者への深い共感があると感じます。ないがしろにしているとやがて思わぬ脅威となることもあるでしょう。数々の事件の根底にも共通するものがあるように思います。
 
明け方に目覚めたわたし海になるじっと船出に息を潜めて   千春
明け方のしんとした静けさのなか、今から始まる一日をどう過ごそうかと考えるというよりは、身の内からじわじわ動き出す気分に耳を澄ます、といった感じでしょうか。
 
深くふかくローズせんぱいお辞儀してギターケースは空っぽの棺   ちば湯
空っぽの楽器ケースが棺というのは共感するところです。連作中に薔薇柄のシャツと出てくるので、みんなでローズせんぱいと呼んでいるのかな。この歌のローズせんぱいは薔薇のようでもあり、もしかすると深いお辞儀のあとギターとなって棺におさまってしまうのではないかとか、いろんな想像をさせる歌だと思いました。
 
一箱にお菓子が四つ入ってる この時五人家族は社会   島坂準一
どんなふうに分け合うかを考えたあと、独り占めするパターンとか二人で二個食べる、一人だけお菓子の存在を知らせないなどなど、結構パターンがあるなぁと思いました。「お菓子が四つ」入っていますよね、結構いいお菓子が。
 
おばあちゃんあなたは展望台だから小さい私に目を細めたね   嶋江永うみ
目を細めるというと、小さい子の可愛らしい様子に微笑む様子を想像しますが、この歌では違うように感じます。おばあちゃんは上から目線の厳しい目つきで小さい私を見ているようです。
 
脳内に無断でベンチを置かれたしサンドイッチを食べこぼされた   岩倉曰
無遠慮な介入を描いているようで、他者をダイレクトに受け入れてしまっている(しまえる)のがすごいなぁと思いました。このベンチはずっと置いておくのでしょうか、食べこぼしのサンドイッチは掃除するのでしょうか。なんかそのままにしてそうです。証拠の品として。
 
雨風が窓を必死に洗う日に何もしてないわたしは元気   斎藤見咲子
「雨風が窓を必死に洗う」って面白いなと思いました。憂鬱に思いがちですが、頑張ってやってくれてるなと思うと、どうも、という気にもなります。また、雨風の線によって守られた空間の輪郭が現れ、繭の中で力を極力つかわずに気を養っている様子が見えてきました。
 
風をたたみ風をすくった扇もてそなたが指せば光暈となる   井辻朱美
能の舞台を見たことはないのですが、扇を高くかざすようなイメージが浮かびました。プラチナのような光に何も見えなくなりました。
 
私たちだった花火の音がする屋上で全部食べるそうめん   藤本玲未
大輪の花を咲かせたようなかつての恋を思い出し、あの時があっての今なんだなぁと思いつつ、さらさらとそうめんを食べていると思いました。「全部」というのも、ほんとは残してもいいなと思っているところにかつての熱量を思い出し、全部食べよう!と思い直したような気がします。
 
今回の不調はきっと治らない透けずあかるい夏服の裏地   柳谷あゆみ
自分の体はすみずみまで見通せていたはずなのに、いえ、見通せているからこそ「治らない」という実感があるのでしょう。夏服の裏地の比喩が美しくも現実を突きつけてきます。
 
びつしりと書かれし文字に嫉妬せる画集のたぐひ徒党を組めり   松澤もる
ふむふむ。私はこれとは逆の感覚です。こんなに言葉を尽くしても1枚の絵、または1小節の音楽にかなわない!と文学は絵画や音楽に嫉妬しているのではないかと感じています。人の感覚っていろいろで面白いなぁと思いました。「徒党を組めり」も面白いです。本屋に行ったらそんな目で彼らを見てしまうと思います。
 
どの人もいつかは母を喪くすかと思へば少しやさしくなれる   松本遊
そうだな、と思います。どんなに偉そうにふるまう人にも母はおり、いずれは喪う。この人もいつか自分と同じように悲しむ日がくるのだろうと思うと鋭かったまなざしがふと緩むのでしょう。同じように、人もまた自分のことをそう見ているのかもしれません。
 
蛇皮のさいふを使う人といて前世を想うことも減ってきた   湯島はじめ
「蛇皮のさいふ」というと少し年配な人っぽいけれど、おそらくパワフルな人なのでしょう。脱皮脱皮で次々に自分を脱ぎ捨てていく生き方をいいなと感じている様子が伝わってきました。
 
金星を夜毎見つけてほっとする今日も働いたのだ光と   有田里絵
金子みすずの「昼のお星はめにみえぬ」を思いました。人相手の仕事するようになって、時々は面倒だなぁと思う時もあり、でも丁寧に仕事ができた時にこう感じることがあります。光は人そのものとも読めますし、自分を導く善なるものとも読めると思いました。
 
連休の谷間の朝はからっぽの広き車内に光遍(あまね)く   小野とし也
昨日までは家族を乗せていた車も今日は休日なのでしょう。元々の空間が家族(おそらく)全員を乗せた後ではとても広く感じられます。しんとした静けさのなか朝の光が満ちて、まるで車がエネルギーを充電しているように感じました。遍く、という表現で光が人にもモノにも分け隔てなく与えられているような感覚になりました。
 
薄暑光窓から来たりそのままを受け取りかねて閉じるカーテン   生田亜々子
とても気になる歌です。初夏の光であればそんなに強くなさそうですが、「そのままを受け取りかねて」とあります。「~しかねる」という表現にはなんらかの抵抗や拒否感があり、それはなんなのだろうと考えさせられます。そう考えていると、「薄暑光」がどんどんピュアなものとして存在感が増していくのです。
 
誰も訪はぬ庭に牡丹のあまた咲く白き五月雨るるとふるとき   歌野花
結句の「るるとふるとき」がいいなぁと思いました。「るる」は漢字では縷々ですが、ネットで検索してみると、漢語オノマトペとして載っていました。雨は直線ですが、「るる」とすることでふわっと降る雨のように感じました。筆でかな文字をさらさらと綴っているかのようです。
 
田を渡る風ここちよき夕べなり屋根に見上げる夜半の望月   悠山
なんて気持ちがいい歌なんでしょう。景が見えるというより、その場所に転送されてしまった感じがします。
 
世の中の人々何を着ていたか出かける間際動きが止まる   大池アザミ
あぁ、分かる~! 半袖?長袖? 家の中と世の中とは同期がとれていないことが多くて、それを合わせるために「動きが止まる」んですね。止まっているけれど、何かがすごい勢いで動いているんですね。
 
知らぬ間にできた切り傷見るような母なき里の夕焼けの空   雨野時
あの居間に父を残していることの月夜の無人駅に来ている   同
対になっている2首。自分の体にある傷から今はなき母を思う歌と、見えてはいるが触れられない月から存命の父を思う歌。胸にせまる夕焼けと遠くから見つめる月はそのまま作者にとっての父母を表しているのだと思いました。
 
休日のこの角度から見てみれば会社はずいぶんなさびしんぼう   小野田光
「休日の」「角度」というのが面白いです。会社を真ん中にぐるりを円盤状に月曜から日曜があるとすれば、休日(日曜とは限りませんが)は会社の背後にあるような気がします。そして、その上空をふわふわ飛びながら、いつもは威勢がいいのにホントはひとりなんだな、おまえ。と思ったりしたのかなぁと想像してみました。
 
混みあったバスの中では人間のふりをしている面長の犬   木村友
忘れられない歌になると思います。「面長の犬」いっぱいいますよ。犬ってところが勤勉な感じがして絶妙だと思いました。
 
天球儀アガパンサスの花ひらき宇宙にひとり、ひとりの宇宙   ユノこずえ
花火のように咲くアガパンサスを天球儀と表現していて、とても美しい歌だと思いました。群生して咲いていてもそこにはそれぞれの異なる宇宙があるのですね、花もひとも。
 
惑星の遥か彼方の星よりの鼓動聴きたくダイヤル回す   上田亜稀羅
宇宙の遥か彼方の探索と「ダイヤル回す」というアナログな手つきのアンバランスさに惹かれました。レーダーの精度を上げたとしても、最後は人の微細な感覚に頼る。そうであってほしいなぁと思いました。
 
一卵性のたまごのなかで訊きあった生まれでかたとそのあとのこと   小川まこと
この会話を想像して双子っていいなーとうらやましく思いました。一生分の話し合いをすでに終えて、ふたりの憲法は出来上がっているかもしれません。生れ出た瞬間、全部忘れてしまうのでしょうけど。
 
台風の前の静けさ待ちぼうけ冷製スープをふうふうしつつ  土井みほ 
「冷製スープをふうふう」するという、しなくていいことを無駄にやってしまう状況=「待ちぼうけ」というのがすんなりと入ってきます。そこだけ見るとユーモラスですが、「台風の前の静けさ」なんですよね。つまりこれから起こるであろう嵐を前に緊張を紛らわせている。結句まで読んで初句を思い出し、反転するような感覚になりました。
 
どの道も曲がって曲がって曲がったら戻れるけれど戻らないよね   齋藤けいと
「戻らないよね」に意思がにじんでいていいなぁと思いました。多分、戻った頃にはそこにいた人達はもうどこかに行ってしまっているでしょう。そういえば、以前ツイッターで谷川電話さんが「短歌には4つの曲がり角がある」とおっしゃっていて、それを思い出しました。戻れるけれど戻らないなぁ、と思いました。
 
満ちていく足りなさいつも寄り添ってくれたわたしのなにか足りなさ   百々橘
足りないという気持ちが欲する気持ちを生み、自然と人やものを求めるのだと思います。求めている間、求める気持ちが寄り添ってくれて、その時に感じる孤独は初級編なのかもしれません。欲しいものがなくなり満ち足りてしまった後に感じる孤独を思うと、受け止めきれない重さを感じてしまいました。
 
たまご呑み殻吐く蛇に蛇取りのさすまたの影近づき来たる   嶋田恵一
ひとつ前に獲物を狙う蛇の様子を詠んだ歌が置かれ、続いてこの歌を読むと、獲物を狙う蛇→蛇を狙う人→人狙う??? というように想像がふくらみます。連作の最後に効果的に置かれていると思いました。
 
6歳でズルを覚えた 花びらで好き嫌い好き嫌い好き好き   杉城君緒
あぁ、やりましたねぇ。ズルを覚えたというかズルを意識したというか。自分が欲しい結果に寄せていく感じ。「かみさまのいうとおり」に続く文言もそうですよね。
 
以上です。

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