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1月17日という日を迎えるにあたって

1995年1月17日。
多くの人が知っている日です。
それでも、職場でこの日の記憶を持つ職員は少なくなっているかもしれない。
もっというと、その時、その職場にいた人となれば、自分も該当しない。
そういう年月が経ったことになる。

今年の1月17日は、きっと多くの人が、いつも以上に
いろんな思いを巡らせる日になっているだろう。

あの日の記憶

もう、記憶が曖昧になっている。
高校生の頃から、朝が弱い。
その日の朝、朝珍しく、5時45分に目が覚めた。
まだ45分も寝られると思って、寝ようかなっと思ったら
窓がカタカタと鳴り出した。

風のきつい朝だな

っと思った瞬間にガタガタと揺れ出した。

地震だ。

揺れと同時に、母がガスをとっさに消す音が聞こえた。
そして母がマンションの部屋中の扉を玄関に扉も開けた。

長かったと感じたが、実際はそうではなかったかもしれない。

寝ている場合じゃない。
そう思ってテレビを見たけれど、何も得られなかった。

電車は動いているようだった。
とりあえず、乗って学校に行った。
きっと今なら絶対行かない。
当時は、行くんだと思っていた。

鮨詰めの電車で、余震でふわっと浮き上がる。
このまま電車が倒れたら、、、っと思ったのは、そこにいるみんなだったと思う。
何度か止まったが、学校までたどり着けた。
でも、先生もほとんど来ていない。生徒もまばら。
ガスが止まっていてエアコンがつかない。
寒い教室でコートを着ながら過ごしていた。
誰かがバトン部かダンス部から持ってきたラジカセで、ラジオを流し始めた。
そこから流れてくる情報の多さと、甚大さにどんどん怖くなっていった記憶。

被害が大きかった地域の子は、なかなか学校には来れなかった。
教室にやってきた時、大きな拍手が起こった。

29年の歳月

最近入ってきた職員で、震災といえば、東日本大震災を思い浮かべる人がほとんどだ。
東日本大震災から13年。
熊本地震から8年。
大阪北部地震から6年。
近しく、記憶する大きな地震以外にもある。

地震以外でも、台風や大雨による災害も後を絶たない。
わたしが住んでいる地域でも、水害は起こったし、
それによって多くの人に助けられた。
台風の進路は、毎回チェックし気にしている。

職場でも、支援に行った人そうでない人、
多くに人に助けられた経験がある人そうでない人が、混在するようになった。
ある意味で、それは当たり前かもしれない。

当時高校生だったわたしが、自分と同じような高校生が
避難所で勉強していたり、ボランティアに行ったり。
そのことを、そんなに意識すらしていなかった。

29年。
福祉の現場で働き、また家族の様子も変化する中で、
大変そうだな、だけでない、複雑な思いがふつふつと湧いては消えてくる感覚。

年月を経て、気持ちも受け止めも変わったこともわかる。

今、思うこと

そして今、能登半島地震のニュースを見ている多くの人が、
心を痛め、何かできないか、何ができるのか、探しているような気がする。
能登半島では、これから先も長い期間の支援が必要になることも、予測されている。

ただ、ニュースの量はぐっと少なくなってきた気がする。
情報に触れる機会が減っていることは感じる。

そんな中で、出会ったこの投稿。

何をしていいかわからないけど、何かしたい。
私たちが、今改めて考えなければならないこと、
ぜひ考えていきたいことが詰まった投稿でした。
現地に行かなくても、思いを寄せる、寄せ続けることはできる。

そして、こちらの投稿もあったかい気持ちになりました。

図書館で、能登半島のことを調べてみる。
どんな町か、見調べてみる。
どんな本で舞台になっているのか、読んでみる。

行けなくても、思いを寄せることいくつもあるんだなっと思う。

直接被災された人に届けられる義援金も
災害ボランティアや活動に寄せられる支援金も
形は違えど、能登半島地震の被害を受けられた人たちに
役立てられるものでもある。

どの行動にも、それぞれの思いがあり
能登半島地震の被災された人たちを思うことが
起点になっている。
そのことを大事にできる、そういう自分で、社会でありたいと思う。

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