募金は難しいという話

 先日、どうしてもイカ墨のリゾットが食べたくなったので、近所のスーパーで材料を買い込んだ。ところが面倒なことに、料理の出汁(ブロード)をとるのに必要なあさりだけが売り切れていた。
 仕方なく一度家に帰って支度をしてから、別のスーパーに向かうことにした。ところで私の生活上もっとも厄介なことは、近場にスーパーが一軒しかないことで、ほかの店に入ろうとすれば、約1kmほど歩かなければならない。けれどもイカ墨リゾットを期待する口は、炎天下の中を歩き回る不快を私の足に命じた。
 その道中、汗だくになりながら灼熱のアスファルトを歩いていると、駅前で国境なき医師団が募金を呼び掛けているのが目に入った。赤と白の制服を着た若い男女数名が、広場にまばらに散って、通行人に声をかけている。重そうなプラカードを持った人もいれば、あちこち歩きまわっている人もいた。
 私は目が合わないことを祈りながら横を通り抜けようとしたが、向こうの方では許してくれなかった。さっと私の横に付くと、「募金していただけませんか~?」と張り切って聞いてきた。募金するつもりがさらさらなかった私は、宗教勧誘を相手にするのと何ら変わりない態度で(かわいそうなことをした!)、手を前に振って断った。
 私はそのまま鼠のように逃げ出し、すぐに目当てのスーパーに入ったのだが、たちまち良心の呵責にさいなまれることとなった。千円を募金するのにも困るような暮らしをしているわけではないのに(いや、そんな暮らし向きをしている人でさえ何とか費用を捻出しているかもしれないのに)、なんて冷淡な態度をとったのだろうか。まともに顔も見られなかったが、私に声をかけた青年が汗だくだったろうことは想像に難くない。きっと貴重な休日を費やして、このくそ暑い中、顔も知らない他人のために広場を徘徊していたのだろう。そんな篤志家と自分を引き比べて、自己嫌悪に駆られた私は、あさりを買った後でも人にやるだけの金があるか確認しようとかばんをまさぐった。ところが困ったことに、上から底まで探しても財布が見つからない。もちろんズボンのポケットになどあるはずがなかった。どうやら身支度を整えたときに、家に置き忘れてしまったようだ。
 その時、面倒だなと自分の失態を煩わしく思うと同時に、自身の運命への自嘲も禁じ得なかった。面白くもない感傷だと理解しつつも、ちょうど募金から逃げたことへの天罰が下ったような気がした。もっと言えば、援助を必要とするあらゆる人々から、復讐をされたような気がした。その復讐が、募金をしなかった吝嗇家の魂に対してなのか、お情けで金を恵もうとした俗物根性に対してなのか、あるいはその両方なのか分からないけれども、明らかに何かの力で私の生活に不快な些事をもたらしたとしか思えなかった。
 そして実際、(復讐に見える)その試みは成功した。先ほど入ったスーパーも、そこから近場の二軒の店も、そろって電子決済が使えなかったのだ。このご時世に楽天payもID決済も導入していない店を恨めしく思う反面、それもこれも、炎天下の中で必死に人のために働く青年のために財布を出そうとしなかった自分への罰だと考えると、笑えるような気がした。
 私はイカ墨のリゾットを諦めて、この業を甘んじて受け入れた。ところが家に帰ってよくよく考えて、果たしてこの不愉快な出来事が支援を受けたい人々の復讐だと仮定すると、一つの矛盾が生じることに気が付いた。というのも、私は財布を探そうとした時には、既に募金をしようと心に決めていた。とすれば財布をかばんに入れておいてさえしてくれていたら、私は(おそらく)金をだしていたはずなのだ。
 ここまで煎じ詰めて考えると、考えられる結論は二つしかない。一つは、彼らが差し違える覚悟で私に復讐を果たしたということだ。1時間後にはイカ墨リゾットを食べて自分たちの窮状など頭の隅から消してしまうような人間が、アサリを買ったおつりで一時の満足感のために与えるお情けなど拒み、死なば諸共でイカ墨リゾットを食べられないようにした。もう一つ考えられるのは、ただ私が被害妄想を延々続けているだけなのかもしれない。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?