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#009 行ったことのない場所

 考えてみれば行ったことのない場所というのは結構ある。いや考えるまでもなく無数に存在するわけだが、身近で/ほぼ誰にでも赴ける/ハードルの低い場所であるにもかかわらず、と前置きすれば事情はちがってくるだろう。東京タワー/スカイツリーにのぼったことのない都民などはその好例かもしれない。
 私の場合、卑近なところからはじめれば、まずは〈牛角〉。焼肉を含め肉料理全般が得意ではないとの個人的な嗜好を措いても私のようなアラフォー世代でつき合いも含め牛角に入った例(ためし)のない人間というのは珍しいのではないか。つき合いは多い方ではないが焼肉屋は二、三記憶があるから、つまり単に牛角に縁がなかっただけかもしれない。いや、そんなことを言えば〈丸亀製麵〉〈バーミヤン〉〈いきなり!ステーキ〉〈日高屋〉〈コージーコーナー〉など未体験の大手チェーン店はほかにも多々あり、何も牛角は例外ではないのだが、ともかくも考えてみればなるほど行ったことのない店というのは結構ある。
 行ったことのない国ということを考えてみればパスポートを持っていない私はそもそも海外に行った経験がない。小学校高学年の際に一度母親がヨーロッパ旅行を画策してくれたが(ということはパスポートはあるのだろうか)、まず成田に出る必要から乗った飛行機内で耳に激痛が走り、着陸後に耳鼻科で受けたのは〈航空性中耳炎〉なる診断、結局旅行はキャンセルしそのままJRで引きかえしたことがある。記憶は曖昧どころかほぼ喪われているのだが、まず耳鼻科を探しだしてくれた母の苦労は無論のこと(成田に到着したのが夜だった上、土地勘のない空港周辺で、のみならずネットのない時代であった)、無駄になったであろう旅費や愉しみを潰したことに対する罪悪感が、両親(父は同行しなかったが)はそんなことなど気にも留めていないとわかっていてもなお、当時のことを思うたび私の胸に迫りくる。病院では航空性中耳炎とはさして深刻な病いではなく、成長とともに自然に治癒するだろうとも言われ、現に二〇代半ば以降は飛行機にも難なく乗れるようになったが、しかしそれからほんの数年後、中学の修学旅行で再び飛行機に乗らねばならなくなった際にはさすがに不安を覚えた。気圧の変化を緩和するしかけの耳栓を使用するなどしたがほとんど焼け石に水で、医者にかかるほどではなかったものの教師や友人に気を遣わせたり東京観光を鈍い痛みの中に過ごしたりした苦い記憶が今もなお朧に残っている。病気は厭だなと安直にまとめたくもなるが、しかし確かに私自身の不快感もさることながら周囲に迷惑をかける申し訳なさという実に日本人的な心象からしてもやはり病気とは厭なものである。
 ほかにも〈競馬場〉や〈コストコ〉など行ったことのない場所は無論多々あろうが、しかしだからどうということもない、との予期していた/月並みな結論に落ちつくのはなんとなく癪だが、やはり妥当でもあろう、行かなければ行かないでどうということもない場所というのは結構ある。

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