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彫刻家「石井鶴三先生 講演筆記」


石井鶴三は、彫刻家でもあり挿絵画家でもありました。
そして、山本鼎が始めた自由画運にも関わりを持っていました。
特に長野の教育には深く関わり、上田市には彼の資料室があります。
この資料は、そんな石井鶴三が学校から子供たちの絵の評価を頼まれ、総評を講演した内容を記したものです。
図画委員会編集とあるのみで、いつの時代のどこの学校かはわかりません。
時代を測れそうな箇所は、文章中にある『最初の時の刷物(昭和六年度作品短評後記)』とあることから、1931(昭和6)年以降であることがわかります。
また、評する子供たちが「尋一」から「尋六」、「高一」「高一」であることから、1941(昭和16)年の国民学校令発布前なのでしょう。
つまり、昭和初期の頃の石井鶴三の芸術観、そしてその時代の児童画について知ることのできる資料なんですね。

石井鶴三については、筆まめであった彼のおかげもあって、多くの資料が残されており、文集、書簡集、日記等々がまとめられています。
この講演筆記が、もしかしたらどこかに記されているかもしれません。

その内容ですが、まずは彼の芸術観を語り、その後学年別の総評をしていきます。
そんな彼の「芸術観」をまとめてみます。

まず、「素描(デッサン)は絵画の生命」だと言います。
色彩よりなによりデッサンだと。
その素描の要素は「線の動き即ち動性(ムーブマンMouvement)」そして「量感(ボリューム Volume)即ち量の持っている美感である」と言います。
このあたりは彫刻家の美観そのものですが、これが子供の絵にも必要だと言うのですね。
その素描を用いて「どこまでも感情の上に立って、美しいと感じたものを正しく描写」することが絵画や彫刻であり、そのためには「外形的な科学的正確にのみとらわれて居てはいけない」と言います。

つまり美を感じた箇所を感情に合わせ表現しつつ、その描写は動性と量感がなければならない…といったところでしょうか。
セザンヌ主義的なものが児童画に影響を与えたことがわかります。
また、それが彼の彫刻観でもあるのですね。

石井鶴三の作品に、同じく長野の農民たちに教えた農民美術的な作品や、奈良人形のように、カタチを簡易化した量感のみのような作品郡があります。
そういった作品の理論的な裏付けが上記の彼の発言から理解できますね。

そういった理論の流れが、橋本平八や木村五郎等々の彼の後進に影響を与えたことは、とても重要だと思っています。
また、現在の児童画にも影響を与えているとも言えるでしょう。
ただ、この講演筆記では、子供たちの作品の中でダメなものを上げて評論を行っています。
さすがにそれは、現代ではできなさそうですね~

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