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コメンテーターの後藤謙次氏による「国民はそこを求めているのではなくて」という言説は、明らかに一部の国民」の意見をもって、それがあたかも「全ての国民」の総意であるかのように主張しています。これは勝手に「国民」を語る印象操作であると言えます。

以下は前章の続きである。
「国民」って誰ですか 
2017年5月以降において、「報道ステーション」が使った「国民」という言葉の一部を紹介します。
番組中で「国民」という言葉が語られる際には「全ての」「一部の」という形容詞は報道では全く使われておらず、その判断は視聴者に委ねられています。 
ここで、いくつかの言説を例として詳しく分析してみたいと思います。 
まず、報道ステーションでメインキャスターを務める富川悠太アナの「国民の意見が反映されているとは思えない」という言説は、明らかに一部の国民の意見が反映されているとは思えない」ことを意味しますが、日本語の慣用的な表現で言えば「全ての国民の意見が反映されているとは思えない」とミスリードされます。 

そもそも、一般的な政治のアジェンダにおいて、全ての国民の意見を反映することは不可能であると言えます。
なぜなら、個々の国民の意見は多様であり、互いに対立するからです。 
したがって、「国民の意見が反映されているとは思えない」という言説は当然のことを言明しているに過ぎず、報道でアナウンサーが皮肉たっぷりに言明するような類の内容ではありません。 
しかしながら、この言説に心理操作された一部大衆は疎外感を感じることになり、政府に対して不満を持つことになります。 
コメンテーターの後藤謙次氏による「国民はそこを求めているのではなくて」という言説は、明らかに一部の国民」の意見をもって、それがあたかも「全ての国民」の総意であるかのように主張しています。
これは勝手に「国民」を語る印象操作であると言えます。

田原総一朗氏による誤報 
また、ゲスト出演した田原総一朗氏による、テロ等準備罪に対しての「国民の皆がもっと審議をすべきだと言っている」(全称判断)、「国民のほとんどが無茶苦茶だと思っている」(全称判断を示唆させる特称判断)という言説のうち、一つ目の全称判断は明らかな誤報(少なくとも、国民の一人である私はそうは言っていません)であり、二つ目の判断を示すような世論調査結果(無茶苦茶だと思う)も見たことがありません。 
このような悟性を欠いた無茶苦茶な言説がテレビ報道されているのは、非常に危険であると言えます。 

富川悠太アナが、あたかも国民の一人の立場として発言している「国民は納得できるとは思えない」という言説も、勝手な推測に過ぎません。
事実をアナウンスすると、情報弱者から認識されている【漠然的権威vague authority】であるアナウンサーの見解は、コメンテーターの感想よりも影響が及ぶことに注意する必要があります。 
なお、番組中の富川アナの発言は、たとえ個人的発言のように感じられても、実際には富川アナ個人の発言ではなく、番組スタッフから指示された台詞であると考えるのが合理的です。
厳しく時間管理されているニュース番組で、個人的見解を述べているような時間はないからです。 
組織人である富川悠太アナと小川彩佳アナは、番組で富川悠太アナと小川彩佳アナというギャラを演じているに過ぎないものと推察されます。
これは、過去に高額ギャラを支給されていた古舘伊知郎キャスターにも共通することです。 
優秀なアナウンサーであればあるど、番組の論調を自然に表現することになり、番組の論調に不満を持つ視聴者からめちゃくちゃ嫌われることになります(笑)。
この稿続く。

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