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論者によっては、この「石を立てる」とは「庭を作る」と同義語だというのだが、それほどに立石が庭の最重要事項だったとは、おどろくべきことではないか。

2011/7/29
しかも「石を立てること」は、あの造園法の古典『作庭記』の最初に述べられる、最重要な庭のしつらえだった。 
では著者は、石を立てることの意義を、どう心得て庭の最重要な課題と考えたのだろう。
『作庭記』は次のように立石を心得る。
 第一に、「所々に、風情をめぐらして、生得の山水を思はへて」立てよという。
立石は風情をめぐらすものであった。
ことごとしく宗教的思想などを云々してはいけない。
王朝の人びとにとっては風情こそが最高の美学なのである。
 
第二に、「家主の意趣を心にかけて、我が風情をめぐらして立つべきなり」。
作庭者が住人の意趣を汲んで、風情をめぐらせて立てるものが、石であった。
 
そして最後に国々の名所を思い起こし、大景をまねて、「やはらげ立つべきなり」という。
名所をまねてはいても、それが見え見えでは、はしたない。
十分こなれた物として、名所もどきを作ることとなる。
 
論者によっては、この「石を立てる」とは「庭を作る」と同義語だというのだが、それほどに立石が庭の最重要事項だったとは、おどろくべきことではないか。
石をもって風情をあらわすという営みは並なみでない日本人の、情調の賜物と考えるべきであろう。
それでこそ枯山水もよく理解できる。
その庭に山水はないのではない、枯れるというあり方をする山水がある。
色に枯野色があるのと同じで、これこそ「生得の山水」といっていいだろう。
もとより枯山水を演出させるものも石である。
瀧に見立てた立石、水に似せた白石。
そしてさらにみごとなのは小石を並べた洲浜であろう。
とくに京都、仙洞御所の巨大な洲浜は海岸の砂浜という、水から陸への徐(おもむ)ろな地形の変化を果敢に出現させようとする。
砂より大きい玉石をしかも粒揃いにしたことによって、寄せまた返る波頭が出現した。
流動してやまない波を永遠化するのである。
文・中西 進…ウエッジ8月号から。

2024/3/10 in Tokyo


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