一樹の蔭〜放免の平安事件簿〜 外伝
ある日の雅近邸
角盥を洗顔用の水で満たし、運んで行く。
篤良様のもとでこのような雑用を担うことはなかった。しかし、ここでの私・誠は専属護衛ではない、ただの従者だ。少しでも役に立たねば。
持ち前の平衡感覚を存分に駆使しているおかげで、水面にはさざ波すら立たない。
この技を初めて披露した時、雅近様は『すごい、確かにすごいけど。何というか、くだらない……せっかくの素晴らしい運動神経の無駄遣いじゃないかな…………?』と苦笑いしていらっしゃったな。
これから世話する歳下の主人を思い浮かべる。
もし、雅近様に出会えていなかったら。
私は孤独なまま、その苦しさに耐えかねて、どこかの時点で自死しただろう。
かつての主人である篤良様には申し訳ないが、私の忠義はこれから雅近様に捧げる。
もちろん、篤良様や頼安のことは忘れない。一生、弔い続ける。
それでも。
二人の所へ向かうのは、まだまだ先だ。
「失礼いたします」
雅近様は、まだ褥の中にいらっしゃった。
私がいる側に背を向ける形で寝ておられるので御顔は見えないが、特に異常はないだろう。
角盥をそっと部屋の隅に置く。
雅近様のお休みを妨げないように、そっとその場をあとにした。
厨に向かうと、古参の使用人達が朝餉の用意を済ませていた。
雅近様、真白、私。三人分の膳からそれぞれ一口ずつ取り分け、近くにいた者に毒見させた。
「助かる」
礼を言い、膳を受け取ってさっさと立ち去る。
使用人達は最初こそ、突如ここに住み始めた私と真白を訝しんでいた。しかし、今ではある程度上手くやれている。
疑り深い我が君は、確実にあの手順を踏んだものしか召し上がらない。私が来る前は、自らの監視下で毒見をさせていたそうだ。
襲われるのを警戒してか。ここに置かれた数少ない使用人は、いかにもか弱そうな女ばかりだ。
きっと、毒見の時間は毎日睨まれて震えていたのだろう。
私が彼女達を対等な仕事仲間として扱っているうちに、態度が軟化した。
互いに仲良くはならないが、敵意を向けることもない。いてもいなくても気にならない。このくらいが丁度良いだろう。
「おはよう! とうさま!」
真白が、座敷で待っていた。
「挨拶は、おはようございます、だ」
注意に、ぷうっと頬を膨らます。
「いいでしょ! まさちかにいさまいないもん!」
「私を父親と思うなら、父親に対する態度をとれ。それに、他人の前で間違えたらどうするんだ。挨拶くらい流石に覚えただろう」
「むう…………」
滔々と説教すると、真白はそっぽを向いた。
親子関係に、慣れが出てきたからか。少し生意気になったな。
私は、一人でまとめて三つ持っていた膳を、全て床に置いた。
「真白」
彼女の顔を両手で挟み、無理矢理前を向かせる。
「返事は」
「……ごめんなさい」
「よし」
表情を和らげ頭を撫でてやると、彼女はとたんに機嫌を直した。
「『ごめんなさい』、『ありがとうございます』は人としての基本だ。ちなみに、上の立場の人には『ごめんなさい』のかわりに『申し訳ありません』などを使う」
「はい!」
新たなことを教えてやるのを、真白は殊の外喜ぶ。だが。
「じゃあ、さっき新しく教えた挨拶をやってみろ」
「も、もう……り…………?」
返事が良いだけで、一度聞いて本当にわかっていることはほぼない。
雅近様も苦労しただろうな。
『申し訳ありません』という一言を思い出すのに苦労して涙目になっている。そんな真白が可哀想で、話題を変えてやることにした。
「ほら、朝餉をいただこう」
「まさちかにいさま、まだきてない!」
「私には仕事がある。それが滞る方が、雅近様に迷惑だ。お前は、待ちたいなら待てば良い」
ちなみに。今日は何故か、検非違使庁から休みを賜っている。だから尚更、ここで雅近様のお役に立たねば。
私はさっさと朝餉に手を付けようとするが。
「まさちかにいさま、まだおねんねかなあ。あたし、よんでくる!」
真白がぱっと立ち上がり、走って行く。
「あ、待て! 雅近様のお休みを邪魔するな!」
私は焦って追いかけた。
手遅れだった。私が雅近様の休まれている部屋に入った時には。
目の前には、雅近様に馬乗りで覆いかぶさっている真白。
「降りろ、はしたない」
「にいさま〜あさですよ〜、あれ?」
ため息混じりに叱っても聞き流して雅近様を揺すっていた真白が、動きを止めた。
「どうした」
「まさちかにいさま、あっちっち……」
彼女は、雅近様の額に手を当てたまま、呟いた。
❀ ✿ ❀ ✿ ❀ ✿
部屋の隅に放置していた角盥。中の水に布を浸して絞る。
真白が言う通り、雅近様は高熱を出していた。
顔中湯気が出そうな程真っ赤になり、ふうふうと苦しげな息遣い。
どうして、今日最初に会った時に気付けなかったのだろう。
悔やみつつ、少しでも楽になれるよう、彼の額に冷やした布を置いてさしあげた。
本来、真っ先にやるべきは僧侶に病魔退散の祈祷を依頼することだろうが、そんなものには頼らぬ。
護摩など焚かれては、たまったものではない。煙を吸い込んだせいでかえって病人の具合が悪くなったらどうするんだ。
これは亡き同僚である頼安の言っていたことだが、私は心から同意する。
やはり、必要なのは薬と滋養のある食事、そして何より心地良い環境での養生だ。
この邸は、薬草が量も種類も豊富にある。
私はいくつか選別し、それらを厨に持ち込んですり潰した。鍋を勝手に拝借して、薬湯を作る。
戻ると、真白が雅近様の汗を拭っていた。
「ご苦労さま」
声を掛けると、真白は照れたように笑って場所を譲ってくれる。
私は雅近様を抱き起こし、薬湯を少し口に含ませてさしあげる。すると。
「っ!」
雅近様は薬湯を吐き出した後、私を突き飛ばしなさった。
病人とは思えない動きで飛び退き、すぐさま懐から妙な葉を取り出して一心不乱に齧りだす。
「ま、雅近様……?」
私は当惑気味の声を漏らす。真白は雅近様の奇行に驚き、その気迫にもはや泣きそうだった。
私も泣きそうだ。雅近様に拒絶されるということは、そのくらい衝撃だった。
「ん…………あれ?」
雅近様が我に返ってくださった。
部屋中を見渡し、私と真白の表情に気づき、持っていた葉を慌てて背にお隠しになる。
「あ、ごめん……毒でも飲まされたかと思ったんだ」
私が脇に置き、かろうじてこぼさずに済んだ薬湯の残りを、雅近様は気まずげにコクリと召し上がる。
かなり苦かったはずだが、彼は残さず飲み干してくださった。
おそらく、幼少期から毒にも薬にも縁があったのだろう。
その理由を考えると、私はこの主人が不憫に思えて仕方がなかった。
雅近様は私が用意した薬や粥をとても喜び、真白と二人で看病すると、行動ひとつひとつにいちいち感謝してくださった。
当然のことでも自らのためにしてもらったことには感謝する。
最初はいたたまれなかったが、今ではこれこそが雅近様の美点だと感じており、私はそんな素晴らしい御方を主人と仰げることを誇りに思っている。
雅近様は一日寝込んだだけで回復された。
大切な人が元気で、私はその近くにいられる。たったこれだけで、日々は幸せで満ち溢れ、最上の輝きを放つのだ。