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弥太郎、長崎の日常に立ち戻る

瓊浦けいほ日録 巻之二 安政七年(1860年2月17日以降)

 この日から、巻之二(二冊目)になります。冒頭に「少年老い易く学成り難し 一寸の光陰軽んずべからず」の七言絶句が掲げられているのは、自らへの戒めであり、また学問が彼にとって最重要であったことを示しているでしょう。

二月十七日 冒頭「大村遊行の始末を日録に写した」とあり、「西征雑録」のような旅日記メモを大村出張時に取っていたことがわかります。「遊行」という語の選択は、目的を果たさなかった大村行きを、遊びの旅のようだったと振り返っているとも取れます。

 中沢寅太郎から「西洋硝薬(火薬)器械見物」に同道してほしいと依頼され、一旦は承諾しますが、下許武兵衛から清語通詞の高尾和三郎(良)と約束があり同伴してほしいとの要請があり、結局断りました。下許、高尾と三人して小さな酒楼に行ったところ、高尾はとんでもない酒乱でした。

主客対面して酒を飲んでいる内、調子に乗って来た。和三郎は平素は温和で謙譲はなはだしいのだが、時が至ると耳が赤く熱され、目を見開いて、日の光を拒むように腕を振り上げて衣を高く持ち上げ、気勢を張って「俺は一度酔ってしまえば生きて還ろうなどとは思わない者だ」と声に力を込め、四辺をにらんだ。酒瓶を取り、壁や柱に投げつけようとする勢いだったので、余は(和三郎を)急遽静止してその瓶を奪った。下許君はそばで掌をたたいて大笑いしている。酌婦らは恐怖して座っていられなかった。

 その直後に「これも旅のお座興の一つだ」と弥太郎が書いたのは、自分たちも酒席で暴れることがあり、野蛮な呑み方をするのも当時の武士のたしなみ(?)という意識があったからかもしれません。雨が降り、日がとっぷりと暮れた中、三人相伴って酒楼を去りました。

 弥太郎は、楊州(楊秋平?)に会おうか迷ったものの、やがてそうした気持ちは収まります。寄宿先で明かりを灯し、碁敵の丹波商人六兵衛と囲碁を三局。勝ったり負けたり。就寝後、「鶏が鳴く前に急に目が覚め、枕の上で(即席に作った漢詩を)口ずさんだ」それは故郷を思う詩でした(下記。読み下しは『岩崎彌太郎傳』による。訳は私のかなり勝手な解釈)。

弟を思ふて遙かに弟の兄を思ふを知る(弟のことが思われる。弟も兄を思っているだろう――弟とは故郷土佐にいる岩崎弥之助。後の三菱二代目社長)
燈火一穂落ちてまた生ず(そんな思いにひたっている内に燈火が落ちたので、再び灯した)
憐れむべし春宵しゅんしょう蕭々しょうしょうの雨(我が身の何と哀れなことか……春の夕暮れ、雨は寂しげに降っている)
点滴和して両地の情を成す(雨音を伴奏のように聞きながら、長崎と土佐の両方の地を思った)

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