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律儀かつ強引な弥太郎

二月十八日~二十日 岩崎弥太郎は出張経費の精算をし、外国事情を記した本を読んで調査を継続。出張中も頭を離れなかった花街丸山にも行きます。

十八日 下許武兵衛に大村出張の経費の申告をしました。弥太郎は、大村藩校の諸氏にご馳走になったお礼として、相手をもてなしたのは公費とするが、私的に飲み交わした分は公費に入れない、と告げます――大村には文献を調べるという名目で行ったのに何の功もなかったのだから。私の方で経費を補いたい、と。

 一般のイメージと違うでしょうが、この律儀さは(特に若い時代の)弥太郎らしいと私は感じます。これに対して、下許は、大村行きは私的な旅ではないのだから全て公金として処理すれば良いと鷹揚おうようです(下許は実は金銭面でかなり杜撰ずさんなのです。日記中に幾度も例があります)。この後、弥太郎は公金帳に記した内訳を日記にも書き留めました。

 弥太郎は、この後、清語通詞のてい宇十郎を訪って「大清地図」と『福恵全書』を借り、夜に早速『福恵全書』を読みましたが、その日の日記の結語では「近日の怠惰」を嘆いています。

「福恵全書」は、清の黄六鴻が各地の知県(県知事)を歴任した経験を生かして,下級地方官の任地における執務心得を述べた著書。

コトバンク:平凡社「世界大百科事典」 第2版より

十九日 「雨。早起きして『大英国志』を読む」午後、中沢寅太郎が来て、いつものように要領を得ない金策の話。竹内静渓が、久松家と約束していた蔵書目録(恐らく外国事情を記した蔵書)を届けに来ました。弥太郎は情報収集に励んでおり、特に怠惰なようには見えません。が……。

『大英国志』は、トーマス・ミルナーの著作『英国史』を、イギリス人ウィリアム・ミュアヘッドが漢訳、『大英国志』として1858年に上海で出版したもの。ミュアヘッドは上海に滞在した宣教師。後に萩藩が『英国志』と改題、翻刻出版。弥太郎が借りたのは漢訳版。

山口県立山口図書館「WEB版明治維新資料」より

 中沢が再び来訪、浴場に行った後に酒を飲んで「微酔」、丸山に行くことで合意し、寓舎に戻ってみると、(誘おうとした)下許は「点灯し臥せて読書」。雨中、中沢と二人で「地獄門」を抜けて丸山へ。津国楼に行くと、なぜか弥太郎は頭巾で顔を隠し登楼するのを躊躇します。中沢に促されて入り、上席につきました。お気に入りの妓女「常盤野ときわの」は他家に行き留守で、「残念で言葉にもならない(遺憾不可言)」

 弥太郎らの席には、十四、五歳の「小妓」と、二十二、三歳の「大妓」が来ました。「身のこなしが美しく妖艶」で、顔立ちや声も良く、歌を聞いていると酒も進んで、すっかり興に乗りました。しかし、弥太郎は(あてがわれた)「小妓」が気にそまず、中沢と「相愛」の様子の「大妓」と、「小妓」を替えようと中沢に持ちかけました。周旋役の老婆に一旦は断られたのですが、強引に交渉して交換に成功しました。ところが「小妓」は、中沢に対して無愛想だったので、中沢は「突然怒りを発しののしなじった」

 小妓は耐えきれず、(屏風を隔てた向こうから)余の枕元に来て大声で泣いた。中沢は言葉にできないほどの醜態で、はばかることなく「小妓」と弁論を往復させるので、周囲の客が笑いをこらえて耳をそばだてていた。余は(恥ずかしくて、冷や)汗を流した。どうにか和解させたものの、寅太郎は何度も風波を起こすので、終夜不快で寝られなかった。

 上の二段落は誤りがあったので訂正し、その上で一部加筆しました(12月26日記)。

 結局、早々に楼を辞去しました。日記には「鶏が鳴く前に雨が止み」、嵐のような風が起こったと記した後、「昨夕の状態は実に愚かで狂っていた(痴耶狂耶)」と締めくくっています。自らの強引さを反省する気持ちを含んでの言だったでしょうか……?

二十日 「曇。丸山から帰って、福恵全書を読んだ」朝飯後、昼前まで日録を書きました。その後、書物を読んだり、同宿者と「江戸ノ繁盛」について話したり、一日を静かに過ごしました。


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