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念願の唐館訪問、遊郭での放蕩

三月一日、二日 二度雨を理由に断られた唐館訪問が実現しました。その夜、翌日と丸山で連夜の豪遊。しかし、弥太郎の上司の下許の武兵衛は不安気な様子です。

三月朔日 晴。朝飯後、岩崎弥太郎は清語通詞の高尾和三郎を訪ね、唐館(唐人屋敷)訪問の希望を託したところ、午後、先方の書生がすみやかにお出で下されたく」と伝えて来ました。天気が良かったから?「雀躍にえず」下許武兵衛と共に出かけます。

 唐館近くの「某家」に大刀を預け、小刀だけを帯びて「華門」を通ります。出入りを管理する役人は横柄で侮蔑的な態度でした。高尾は通詞の詰め所で清客と「問答中」だったため、弥太郎らは、二、三人の通訳官の手引きで楊秋平らの部屋に行き、筆談を交わしました。

 唐館内は、通詞のいる場所と清人のいる区画とは門で区切られていたようです。通訳官は二の門(「二重門」)を藁草履わらぞうりに尻をからげ、低頭して」通ります。清人は日本人を下に見ており、その上下関係を外形的にも明示させていたようです。弥太郎が唐館訪問を雨を理由に二度断わられたのも、こうした尊大さの表れだったと見られます。

 弥太郎と下許は館内を「巡視」した後、清人と通訳官の詰め所で筆談、「唐酒と唐肴とうこうが振る舞われました。中国の酒は「日本酒の味とは違って、塩気を含んでいるように思った」日が暮れて退出した後、林雲逵うんき宅を訪れ、二人して無理矢理丸山に誘い出しました。

 浪華楼で酒を回し呑みし、歌妓数人も加わってどんちゃん騒ぎです。清客が帰った後、弥太郎と下許は「留臥(留まって寝る)し、下許は最初の鶏が鳴く時間に、弥太郎は空が明るくなってから帰りました。旧知の千嶋が留守だったので、弥太郎の相手は「通い路」でした。

二日 早朝に寓舎に帰ると、下許から細かい字で書かれた書簡が届きました。「この間からの遊蕩は実に不安な次第なので、以降きっと飲酒を慎もう」と。弥太郎はこれに強く同意し、二人で浴場に行って結髪、身を清めて天満宮を参拝しました。しかし、その後の行動はというと……。

 弥太郎が下許を「強引」して花月楼に行き、酒を注文します。歌妓を多数呼び、歌舞や拇戦ぼせん(指相撲)で夜遅くまで「豪興を催し」ました。その後、歌妓にり手(妓女の周旋役)まで連れて釜屋楼に行き、さらに別の歌妓を招きました。帰路では「呼ばれたのでやむを得ず」浪華楼に立ち寄って酒。花月楼に戻り、雑炊を食べてから寝ました。

 弥太郎の「枕頭」には歌妓(名の記載なし)がいます。鶏が鳴く頃、下許が弥太郎を呼ぶ声で目覚め、楼を辞去しました。神社にお参りしてまで誓った禁酒とは何だったのでしょうか? 日記には両者のつながり、あるいは矛盾について、一言の説明も釈明もありません。


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