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弥太郎、清人との交際や情報収集に励む

一月十八日~二十日 清人との交際や懸案の製薬器械の件など、岩崎弥太郎は長崎での情報収集という本来の業務に励みます。十七日に遊女屋から逃げ出した出来事の余波は記されていません。

十八日 午後、弥太郎は竹林亭(料亭?)で開かれた清人(楊)秋平を囲む集まりに参加します。

(清人と)言葉は通じないが、筆談(筆語)で応酬するのもまた一つの楽しさ(快)だ。しばらくして満座に杯が行き渡り、阿園おそのが酒をすすめて弦を弾くと、途端にものすごく興が乗った。酒の合間に、余は戯れに筆を取り秋平に示した。「阿園は飛ぶ鳥が人になったかのように可愛く見えます。先生のよだれは三尺も垂れ下がっているのではありませんか?」秋平は大笑いして即座にその紙の余白に書いた。「涎の大海原で遭難してしまった。水を取り除くために雲のない巫山ふざん(中国奥地の山。奇勝として名高い)に退却しよう

 弥太郎と清人とのユーモアあふれるやりとりは意訳です。原文は以下の通り。「阿園於僕殆有飛鳥依人之態、先生無乃垂涎三尺呼」「僕会経滄海難、為水除却巫山不是雲」正直、私には難しいです。

 弥太郎は秋平と後日「阿園宅」で二十一日に会う約束をします。この後、会参加した八人の名を列挙していますが、中に今井純正の名もあります。静渓らと共に阿園を誘って帰ると、阿園は歌を歌います。弥太郎は途中から急歩で帰り「喫飯」して寝ますが、「ああ、今日の会は快そのものである快、つまりは心に言葉が及ばないほどの快だった」と感興が収まらない様子です。

十九日 囲碁をしたり、清人に書簡を書いたり(未成完成せず)。夜遅くまで静渓と話した後、「余滅灯解衣就枕(明かりを消し衣を脱いで寝た)」

二十日  午後、久松勘三郎から名前を聞いていた海軍伝習所の教官中島名左衛門を訪ね、土佐の製薬場焼失の件で話を聞きます。中島が、門外漢を相手に、以下のように簡にして要を得た説明をし、弥太郎はそれをきちんとメモしていて、事務能力の高さが判ります。弥太郎は、詳しく書きつけたものをください、とお願いして帰ります。

製薬器械に鉄は大禁、鉄器を使うと往々それより失火する。西洋炮薬製器はみな石で作るが、これには時間がかかる。青銅(唐金からかね)を使えば失火の気遣いがない。松の臼に樫の杵を使っているが、杵がちびたら先のみに唐金をいれる。

 昼食の後に勉強。黄昏時に中沢と丸山を散歩、酒楼に行くと、中沢がそこにいた美人にぞっこんの様子で、弥太郎は先に帰ります。その後、旅宿の若い下女(小婢)に金を貸し渡し、中沢の借金について記しています。最後に弥太郎は遊んでばかりで時間と金を無駄にしているのではないかと嘆き、「自省」しています。

 中島名左衛門(1817-1863)は幕末の洋式兵学者。長崎生まれで、出島のオランダ人から砲術を学んだ高島秋帆しゅうはんの門下。安政6年(1859年)長州藩に招かれ、1863年に下関砲台を完成させると、同砲台は4国連合艦隊と砲撃戦を行った。同年、中島は下関で暗殺された。

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