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弥太郎と長崎の夜のあれこれ

二月二十一日~二十三日 夜の街で様々な人士と交流、その最中に物騒な出来事が起こりそうになりましたが、弥太郎の冷静な対応で事なきを得ました。

二月二十一日 朝飯後、清語通詞のてい宇十郎を訪れ、楊秋平からの手紙をどう読み解くのか相談しました。午後には下許武兵衛と竹林亭での「秋平会」に参加します。築町の「をとな(中堅どころの地役人)の荒木氏が隣席にやって来て、その傲然とした態度に弥太郎はうんざりしました。

 それでも満座の集まりは筆談、歌や談笑で盛り上がり、弥太郎は「大分酔いを催し、日が暮れてから去った」会の参加者に阿国おくにの名もあります。阿国は、会の後、歌を歌いつつ先に立って思案橋に至ります。弥太郎が憧れだった阿園のそばにいるのは、人づき合いのうまい「コンサルタント」竹内静渓でした。

 弥太郎は二宮塾生の浅海琴谷を誘って丸山に行きます。が、浅海は「何を思ったのか」花月楼の戸口から走り出ました。弥太郎が後を追って近づき、手提げの灯火の光を浅海の肩に投じると、「浅海は大いに怒っていきなり刀を抜いた。余が驚愕して、どうしたのかと問うと、浅海はすぐに声をやわらげて刀を収め、再び一緒に花月楼に登った」

 浅海と二人きりでは安心できなかったのか、事故(抜刀の一件?)について下許武兵衛に伝えておこうと、浅海を大根屋にやって下許を呼びました。酒や歌の後、「夜半を過ぎて」弥太郎と下許はそれぞれ遊女と「寝」て、鶏の鳴く時刻に一緒に帰りました。当日の日記には、こんな嘆きの言葉が記されています。「ああ、今夕の成り行きは、どう考えればいいのか、吾ながら合点できない、実に奇怪(「不怪」)な有様だ」

 浅海が何を思って刀を抜いたのか、弥太郎にも「読者」にもよく分かりません。弥太郎は、下許と今井純正からも刀の脅しを受けそうになっています(1月25日と30日の日記参照)。世情騒然とした幕末、開港後様々な思惑が入り乱れた長崎、夜の花街、帯刀した酔客……物騒な要素がいっぱいですが、それにしても頭に血が上りやすい人が多かったようです。そんな中、弥太郎が刀を抜いたという記録は、私の知る限り一生涯の中にありません。馬遼太郎の「竜馬が行く」は弥太郎日記の公開前に書かれ、弥太郎は暗殺に失敗する下横目という役を与えられました。今もフィクションと知らない人がいるのは残念です。

二十二日 朝飯後、二宮塾に行って浅海と談話(昨日の「事故」の後始末?)。帰寓後、『大英国志』を寝床で読もうとしたものの寝てしまい、「午後四時頃に夢から覚めた」その後、午前中に約束をしていた鄭と、下許も一緒に丸山を三人で散歩しました。

 花月楼の隣の「眺望絶佳、花月楼の庭園が眼下に見える酒楼」に上がり、二人の歌娼を呼び酒を酌み交わしました。鄭は先に帰り、残った二人は帰り道、花月楼に寄って、そこの老婦と長話をします(老婦とのコミュニケーションは、良い遊女を周旋してもらう上で重要)。深夜に寓舎に帰り、夜食を食べて寝ました。

二十三日 雨の中を外出。清語通詞(で酒乱)の高尾和三郎に出会って、唐館への同道を頼んだものの、唐館は雨を理由に断わって来ました。その後、下許と二人で、二宮塾の川村元吉から招待されていた銀冶町の酒楼に出かけます。歌妓も呼ばれて「随分愉快」。その後、川村と二人で丸山に出かけたものの、期待していた花月楼の遊女あけぼのは不在とのことで、翌日夕方の再来を老婦と固く約束して(「誓不食言」)帰りました。


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