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故郷安芸での日々

二十二日 早起きして安芸あきへ帰郷の支度。義兄吉村喜久次が井野大黒天に参拝に行く門出も兼ねて温酒を飲み、午前九時過ぎに出発しました。「不晴不雨」途中、弟の岩崎弥之助と合流。その後、知り合いに出会ったところ、弟を馬に乗せて連れて行ってあげると申し出があり「雀躍に堪えず」弥之助はまだ九歳、故郷へはやる岩崎弥太郎の早足について行くのは難しかったでしょう。途中小雨に降られましたが「騎虎の勢い」「奮然疾走」、安芸の実家に着くと、父親は大変に喜びました。麦飯と塩梅の夕食。

ああ、前日は長崎での遊蕩の追憶にひたっていたが、それは人の子としてなすべきことではなかったのだ。(嗚呼追思前日崎陽之遊豈為人子之所為哉)

二十三日 一宮神社を参拝、先祖の墓参りをしました。弥太郎の帰郷を知った知人らが次々に訪ねて来て、中には酒肴を携えている者も。昨日、家に着く前に訪問したものの不在だった作蔵は夜中を過ぎて来訪し、空が明るくなる頃まで談話しました。

二十四日 作蔵を家の蔵の二階に呼んで「長崎で金子きんすを使い過ぎたので、金四十両を救ってもらいたい、と申した出たところ作蔵も承け合ってくれた」作蔵が昼に帰った後、弥太郎は中村常四郎方へ行き、作蔵の一件で相談すると、作蔵には未解決の問題があり、自分も高知に出府するのですぐには答えられないとのことでした。

 中村常四郎は安芸の藩役所の役人と思われ、弥太郎とは元から親しかったようです。作蔵は岩崎家の小作人弘田宅平の息子で、かつて父親の弥次郎(かなりの変人)の不始末などから岩崎家が危機に陥った時、親子共々助けの手をさしのべ、今また息子が息子を助けようとしています。作蔵は、見返りに、自らが直面している土地の問題について常四郎に口をきいてくれるよう弥太郎に頼んだのだろうと推測できます。

 家に帰って友人の兼三郎と対酌後、兼三郎宅で来客も一緒に飲んで外出しました。ぶらぶら歩いて出かけた先に「未婚の女(処女)がいたが美人ではない(不佳)。しばらくして相伴って出、別れて家に帰った」この夜も作蔵が来て対酌。「大人(父親)の去年からの暮らし方を談じた」この夜、午後からの雨が降り止みませんでした。

二十五日 作蔵と談話。蔵の二階に上り午睡。常四郎あてに、作蔵の問題を早く取り調べてほしいと認めた手紙を弥之助に持って行かせました。夜遅く、吉田参政への手紙を書こうとしたもののできませんでした。「空が少し晴れて星が輝くのが見えた」

二十六日 常四郎を訪ね、問題の件の進捗について聞きました。昼時、作蔵宅に寄るも不在でしたが「小野叔父が居合わせて大喜び」松魚かつおを肴に酒を飲みました。

二十七日 雨。不出戸。蔵の二階で午睡。鰻を数尾もらって日暮れ前に小酌。酔って寝ながら読書。「夜が更けて雷が鳴り、明け方まで続いた」

二十八日 納所(年貢を納める役所)に行き、居合わせた面々に「長崎談」。常四郎と作蔵の件で話を聞いて帰りました。帰途、作蔵は不在。蔵の二階で仮睡。夕暮れ前、兼三郎と「昨日もらった鰻を焼いて対酌」その後、兼三郎宅に行って「色々雑話」、夜遅くに帰りました。

二十九日 早起きして吉田参政上げる書面を記したものの完成せず。午後、兼三郎らと梅の実の取り入れに行きました。帰り、作蔵に後で家に来てほしいと手紙を出すと、「金三十両を携え来て、にわかに余に手渡す」置酒、談話。夜には知人らと鰻数尾を肴に飲み食いし、作蔵は家に泊まりました。「余は心が落ち着かず眠れない。鶏が三つ時に鳴くのを聞いて初めて入睡の境に入った」

五月一日 雨。不出戸。朝から作蔵と小酌。蔵の二階で仮睡。兼三郎が来て、また一緒に兼三郎宅に行き対酌。戻って蔵の二階で寝ました。雨不絶。作蔵も泊まりました。

二日 雨不絶。作蔵は朝食の後、米売却の契約に行きました。弥太郎は参政に上げる書を書いたものの完成せず。午後、風邪気味なので温酒を飲み、ご飯を食べ夜用の布団をかぶって寝ました。弥太郎は、翌日高知に出府と決まっていたようです。その門出のために、父親が酒と肴を買って来ました。「大人が持ち帰った松魚は甚だしく新鮮だった」兼三郎も呼んで「団欒、飛盃」夜にはまたも兼三郎宅へ。家に帰って寝ると、夜中、弥太郎の耳に雨音が聞こえました。

 岩崎弥太郎は安芸井ノ口の実家に戻った後、作蔵と関連して役所との折衝や土地改良事業のことなど細かに記していますが、多くを省略しました。不明の点が多く、また詳細に立ち入ることに大きな意味はないと判断したからです。ただ、弥太郎の伝記を書こうという人がいたとしたら、これらの記述は資料として大いに役立つでしょう。

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