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弥太郎、ついに改心か?

三月二十四日~二十六日 岩崎弥太郎は、俗塵の巷を離れて田園におもむき、爽やかな春の風を感じます。桜田門外の変の詳しい情報を得て粛然とし、法話を聞こうと仏寺に出かけます。とうとう改心したのでしょうか?

二十四日 「天気快晴。朝起きて会計簿を認める。近来の所為ふるまいを熟慮し、実に自分自身からして不安と思い、是非とも本心から過ちを悔いて、是よりきっと勤勉に務めを果たそうと思った」と反省の弁を述べ、丸山ではなく小島(長崎の旧地名)に行き、谷川をさかのぼりました。

人家がまばらになり、麦畑は実った穂がゆれて波打つ海のようだ。田園らしい風景に、これまで日夜、歌と楽の音(歌吹)の中にあったので、この静かな空間の広がりを見て、知らぬ間に胸の内が爽やかになっていた。

 そのまま歩いて砲術家中島名左衛門宅を訪ねるも不在、借りていた図面を子息に返し、行政関係の漢籍を二冊借りました。「庭前の桜の木が満開で、眺望が大変に良い。(子息から)色々と江戸の人に関する談話を聞いて甚だしく感激した。帰途に舞妓と遭遇したが最早その心持ちに相成らず、急ぎ足で寓舎に帰った」

 昼食後には、下許と連れだって大音寺や祇園社に上って景色を楽しみました。清らかな風が顔を撫でて行きます。高下する曲がりくねった山道をたどって稲荷社に行き、四方に開けた景色に見とれました。物見の客が隊列をなして上がって来て騒々しい中、下許と弥太郎は茶店で休み、丸山町を見下ろしながら少し酒を呑みました。

 西の山に日が傾く頃、二人で帰路に就きます。天満宮を通り、小島を経て寓舎に戻りました。夕食の後、明かりを灯して読書。何と清々しい一日だったことでしょう! この調子でいてくれると安心なのですが……。

二十五日 「終日不出戸」中島家で借りた本などを読みました。「江戸大変」について人から告げられたと記したのに、誰からなのか書かれていません。「大変」とは桜田門外の変のことなのですが、何か事情があるのでしょうか。

 三月三日、大老井伊直弼が水戸浪士に斬殺されて三週間ほどで、弥太郎に詳報が届いたことになります。安政から万延へと年号が変わったことは記されていません。伝聞情報を記す弥太郎の文体には妙な生々しさがあり、文才を感じさせます。全文でないと意味がないので、ここでは省略します。

 前日に続いて大勢の客が大音寺に参集したと記されています。「丸山の婦女も大根屋の下を隊列を作って陸続と通り過ぎて行ったけれど、最早その気に相成らず、寓舎を出なかった」街は夜まで賑わっていたようです。弥太郎は「挑燈ちょうちん」して読書を続けました。

二十六日 朝は読書、午後は浴場。「何か鬱々とした心持ちだったので、(同宿で仲のいい)隅田敬治と散歩した」再び「大音寺に上ると、(参道の)両側を妓楼の婦から寄進された灯燈が照らし、実に賑々にぎにぎしかった。参詣客がいっぱいで、仏堂で法談がある由だったが、人が多すぎて座るところがなく、隅田と片平町の鰻店に行って酒を酌み交わした」その後、二人は妓楼で悪戯をします。

隅田と衣服を互いに取り替え、丸山町を冷却ひやかした。隅田に顔を隠して妓楼へ行かせると、その風俗身なりが余を彷彿とさせるので嘉満楼と小島楼では中に上げてくれた。笑うのを隠さなくてはならなかった。浪華楼の「少女」阿梅はじっくり考えて、着物が余の着するものと同じなので、声を出して曰く「岩原様、岩原様」。笑いを隠しながら走った。

 明らかに、先日二十三日、花月楼に行った時、顔を隠した弥太郎がまんまと別人と間違えられたのに味をしめた悪戯です。阿梅が「岩原様」と呼びかけた部分に、日記刊本では(原文の)ママ」と注記しています。阿梅は、服装は弥太郎だけれど別人だと見破り、あえて名前を少し変えて呼んだのではないでしょうか。頭のいい少女のようです。

 弥太郎は遊女屋には上がらなかったものの、反省の色は早くも消えかかり、三日坊主になろうとしています。その後も「諸楼を冷却ひやかし、帰ると下許武兵衛は明かりを灯して読書していました。夜中に寝て、一睡の後、目覚めると空が明るくなろうとしていました。

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