チベット医学から考えるコロナウイルス。

 「西洋医学とは違った考え方も学びたい」ということで、今トム・ダマー氏による『チベット医学入門』を読んでいます。チベット医学では、病因を主に4つのグループに分けています。

(a)過去性における否定的な行動(原因と結果のカルマ)。

(b)今生の初期における否定的な行動(これも原因と結果のカルマの作用)。

(c)攪乱要因。多くの場合(常ではないが)、人生上、後になってそれが病気の原因であると感じる。矛盾した振舞い、暴飲暴食と身体の酷使(不節制)、不適当な食事、季節や偶然の影響、武器によるけがを含む外傷、ストレス、近親者との死別、環境や生態系によるもの、など。

(d)霊的存在、長蛇や鬼などの「憑依」。伝統的には悪霊によって引き起こされる病気は、カルマによる病に次いで重要なものと考えられてきた。西洋の視点からは何の意味もないものとして軽視されがちである。

 トム・ダマー氏は、(d)について「西洋医学において、微生物による感染と理解されているものをチベット医学が何らかの憑依であると仮定しているのではないかと考えるのは興味深い」と書いています。

 ではそもそも「憑依」や「悪霊」とは何なのでしょうか。西洋医学の視点ではむしろ軽蔑されかねない概念ですが、チベット人の集団内で数千年信じられてきた医学概念を「ただの迷信」だと一顧だにせず一蹴するのは、ちょっと違うような気がします。そもそも「カルマ」にしても、あるかもしれないしないかもしれないものです。しかし証明できないからない、とはならないと思います。考察してみることは大事だと思います。

 ここでぱっと頭に浮かんだのが、内田樹先生の『呪いの時代』です。残念ながら今手元に本書がないのですが、めちゃくちゃ簡単に要約すれば「ネットでの罵詈雑言で実際に自殺する人がいる。平安時代は呪いで人は殺されると本気で信じられていた。現代のネット上を飛び交う罵詈雑言は実際に人を殺すという意味で、呪いに他ならない」といったものでした。

 岡井崇之氏が『呪いの時代』について書評を書かれています。部分的にいくつか引用しまして、思うところを書こうと思います。

 著者の言葉をまとめると、それはこのように説明できるだろうか。現代日本は羨望や嫉妬や憎悪が生身の個人を離れて多様なメディアにおいて一人歩きしている時代であり、その発話者は相手を破壊すると同時に自己の全能感と自尊感情を満たそうとしている、と。

  今回のコロナ騒ぎにおいて「コロナワクチン接種」「マスクの着用」「消毒の徹底」等が、公的機関やマスコミから徹底的にアナウンスされました。そしてそれは今も徹底しています。そういった命令を出している当局側の方々は(たとえそれが上司や上の組織からの命令だとしても)自分が属している組織に従うことになる組織や人々がその命令に従うならば、おそらく自己の全能感や自尊感情は満たされるでしょう。そのやったことが正しいか間違っているかは別の話です。この感情はばかにはできません。自己の全能感や自尊感情のためになら、人は相当なことができると私は思っています。「自分は職場で優秀で替えが効かない人間だ」といった評価のためなら、人は相当なことをやってしまうものだと私は思っています。

 こういったことを考えますと、コロナウイルスを題材にした社会的な規制から発生する「多数派の全能感」といったものが、チベット医学でいう「悪霊」とか「憑依」なのかもしれません。

著者はその戦略で採用されている「ペルソナ」(「人間関係の中で、過剰に他者を傷つけない、過剰に傷つけられないための防衛システム」と説明されている)の危険性を非常にわかりやすく論じている。それは同時に、そのような論述がこの章のテーマ「草食系男子」にだけ向けられたものではないことも示唆していよう。例えば1990年代以降、ネットの発達とともに日本社会に定着した「クレーマー」という行動様式にも同じ根を見ているのだ。

 今「反ワク」とか「陰謀論」とかいう言葉によって、youtubeではそういった主張をする方々の主張は根こそぎ消されています。googleやyahooでもニュースを見ると「コロナワクチンを打ちましょう」といったものしか載りません。内田先生的な言説に従えば「反ワク」は「クレーマー」ということなのでしょう。なので、コロナワクチンの危険性を話そうとしても、もう最初から「めんどくさい奴がきたよ」とか「頭がおかしくなった奴がきたよ」と思われます。最初から議論のテーブルに立ってもらえないのです。

 私は一応クリスチャンでして、先日自分が所属する教会の牧師先生に、「コロナワクチンの危険性も教団全体として考えてくれませんか」ということで、意見書を作って説明にいきました。結果は散々でした。先生が「根拠をもって説明してほしい」と仰ったので、私としては荒川央先生の言説が最も説得力があると思っていますので、荒川先生の説を中心に、自分なりの考察も加えて、意見をまとめて持っていきました。すると「なにが書いてあるか難しくてわからない」「なんでこんなに危険性ばかりなんだ。もっと利点も書かないと」「人に説明するときはもっと簡潔に書かないと」といった意見をいただきました。私の所属教団は医師の先生が多いことで有名なのですが、牧師先生の友人の、ある癌の世界的な権威の先生からは、牧師先生経由で「こんなジャーナリストみたいなことをやっているんじゃ医師は無理」「この方の考え方では医者は無理」との言葉をいただきました。私としての心情を申しますと確かに私は未熟者ですので「医師は無理」かもしれませんが、私が議論したいのは「コロナワクチンの危険性」についてなのです。内田先生が喝破したように、そもそも私は「クレーマー」としか思われていなかったのでしょう。

 最初から議論のテーブルについていただけていないことははっきりと感じていました。このこともやはり「多数派の全能感」といったものにつながるようにも思います。こういったこともチベット医学では「憑依」とか「悪霊」と考えるのかもしれません。

さて、東日本大震災後に書き加えられた第10章「荒ぶる神を鎮める」。本章が震災前、フクシマ以前に発表されたものだったとしたら、評者を含め多くの読者が「えっ?」という感想を持ったかもしれない。しかし、原子力を「荒ぶる神」、原子炉を一神教の「神殿」にたとえるところから始める議論は、「原発と日本人」を根源的にとらえる視点を提起している。今回の原発事故は「人災」であり、日本人が原発への畏怖を持たなかったこと(著者は「瀆聖」と表現する)に根本があるというのである。呪詛は今人びとを苦しめ、分断しているし、贈与は今も人びとを励まし、結び付けている。呪詛の効果を抑制し、贈与を活性化すること。私が本書を通じて提言しているのは、それだけのことである。

 この最後の評論が、現代西洋医学が追求してきたこととまったく異なった観点から「病気」を考察してみてもおもしろいのではないかと思った箇所であります。

 「荒ぶる神を鎮める」

 もしチベット医学における「悪霊」が「ウイルス」だったとします。そうしたとき、ウイルスをどう扱うか。一つは「悪いものだから徹底的に殺そう」です。しかし内田樹先生の、原発に対する評論から考えるに、ウイルスを瀆聖と考えることもできるかと思います。「敬して遠ざける」のです。

 私はいつも細菌とかウイルスを考えると『風の谷のナウシカ』の腐海の森に住む蟲や王蟲を思ってしまいます。人間にとっては一見敵にしか見えないですが、本当は過去の核戦争で傷ついた地球を癒すための存在だという設定です。ウイルスに感染したら「瀆聖が体中を駆け巡っている。きっと身体の毒素を追い出してくれているんだ」といった視点だってあっていいと思います。『風の谷のナウシカ』では、ナウシカが腐海の蟲たちに愛情を持つことによって、世界を救いました。このことはもしかしたら、現代医学の「病気」に対する考え方とは全く違う、何かの暗示なのではないでしょうか。つまりウイルスを瀆聖として敬うのです。もちろん妄想レベルの話ですが、ウイルスは王蟲のようなもので、免疫細胞を引き連れて身体を駆け巡る「蟲の王様」かもしれません。『風の谷のナウシカ』の情景を考えれば、王蟲の大群が群生して蟲を引き連れて至るところに突っ込みます。その王蟲が死に絶えたところで腐海ができます。そして腐海は世界の浄化なのでした。

※この記事は私個人の見解であり、いかなる組織や人とは関係ありません。

 

 

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